コロナ禍が進むにつれ、オンライン礼拝も一般化し、実施する教会も相当数にのぼるようになった。
一方、「オンライン礼拝は礼拝ではない」という立場を貫いている牧師・教会もいらっしゃる。
オンラインでの礼拝は、礼拝として成り立ちうるのか、そのことを考えてみたい。
まず、「礼拝とはなにか」であるが、これは「三位一体の神を拝む」ことであり、「神からの語りかけを受け、それに応えること」にほかならない。
礼拝を成り立たせるのは、「三位一体の神」ご自身と、この神に向かうキリスト者・教会の応答だ。
礼拝要素であらわすと、前者は聖書朗読、説教と聖礼典であり、後者は祈祷、讃美、奉仕、献金等による。
これらの手段を通して、神と教会の交わりが実現するのが礼拝と言える。
つまり、礼拝がキリスト教会の礼拝でなくなるとすることがあるとすると、それは「三位一体の神への礼拝ではなくなること」、また「キリスト者・教会による神への応答がなくなること」による。
オンラインという文脈で考えた場合、一体どうなるだろうか。
第一に、動画の画面を見ながらの礼拝において、その対象が三位一体の神ではなくなる、ということについては、オンラインだろうと、対面だろうと、いつでも起こり得ることだ。
私たちは神を仰いでいると言いながら、自分のことばかりを追求するような罪人である以上、本当に三位一体の神を仰いでいるかどうか、という点については、オンラインであるなしにかかわらず、常に危険と誘惑にさらされている。
三位一体の神ではなく、「自分自身の利益」や「自分を支える牧師」、「自分の将来の夢」、「自分の身体の癒し」ばかりを求め、本音の部分では神からまったく身を背けている、というのはありうることだろう。
第二に、神に応えるキリスト者・教会の側として、「神への応答がなくなる」ことについては、オンラインで起こり得る。
オンライン礼拝をしながら、讃美せず、祈祷せず、献金しない、というのは、大変よく起こっていることではないだろうか。
ただ、これについても対面でまったくこういったことが起こらないというわけではない。
礼拝堂に座っておりながら、心ここにあらずで、讃美にも祈祷にも心がまったくこもらないとするなら、それは神への応答がなくなっている、と言える。
結局のところ、オンラインであろうと対面であろうと、礼拝が礼拝ではなくなってしまうというのは起こり得る。
最も重要なのは、「オンライン」という手段の是非にあるというよりも、礼拝者の信仰的な姿勢によるのではないか、というのが自分の見解だ。
オンライン礼拝を、「礼拝」としてささげることもできれば、そうでなくしてしまうこともできる。
それは礼拝者自身にかかっている、ということだろう。
ただし、上の比較からオンライン礼拝の方がより容易に「神への応答がなくなる」危険に落ちやすい特質を持っている、と言えるのではないか。
家にいてできるという手軽な反面、讃美、祈祷、献金、奉仕といったすべてを「自分の選択で、だれにも気づかれずになしにすることができる」という点で、オンライン礼拝は「神への応答」において、よりイージーな方に走りやすい。
「チープな恵みに満足する」とD.ボンヘッファーが批判するような、神への献身がない信仰になってしまいやすい、という弱点がある。
他方において、病床にある方々、諸事情により長欠の方々もオンラインでは礼拝にあずかることができる、というのは非常に大きなメリットだ。
また、教会がどういうところか、まったく知らない地域の方々にも、伝道も含めてオンライン礼拝を公開できるというのは、「地の果てまで福音を」という主のご委託にもかなっていると思われる。
こういった非常に大きいメリットを、オンライン礼拝はもたらすことができる。
そのため、私自身は今のところ、「併用」が最善の選択肢である、という立場だ。
「オンライン礼拝は礼拝ではない」、という立場の方から、自分自身はまだ一度もしっかりと納得できる有効な論拠を聞いたことがない。
オンラインはあくまで「ツール」であって、「ツール」である以上はそれと向きあう「人間」がどのような向き合い方をするのか、ということこそが課題なのだ。