教会とはなにか⑨ 「教会が停滞する原因」

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教会の前進と成長について書いた。では、なぜ教会が停滞するのか、と考えたい。


 教会が前進するのは、御言葉の種がまかれ、それが成長して収穫に向かい、新たな畑に播かれていくからだ。


当然、この神の農作業(御言葉の種まきと収穫)の循環がどこかでとどこおって、妨げられるなら、教会は停滞する。停滞の原因はいくつか考えられる。

 

     「説教」が説教になっていない

 

御言葉の種まきである説教が、御言葉の命が聖霊によって豊かに根付き、成長するようになされていないなら、当然教会は停滞する。


聖書の御言葉から、祈りと学びを通して、豊かに恵みをくみ上げるように牧師が準備しているかどうか。


 むしろ、聖書のうちにあるキリストの命以外の事柄に熱中して、聖書の外の事柄を話すことの方に傾いていないか。


聖書の御言葉を説教しているのか、もしくは自分の思想やこの世の考えを説教しているのか。


 もし牧師が聖書の示すキリストの命を説教していないなら、教会は当然停滞する。


牧師が自分に与えられている時間や労力を、聖書から命をくみあげることに集中しているのか、それとも別の事柄に大半を使ってしまっているのか、が問われている。


牧師が自分の時間をもっとたくさん説教に注いでいれば、教会は更に前進するはずである。


 現代の牧師は、明らかに祈りと説教準備以外のことをしすぎである。


付帯施設の働きや、様々な会議や、牧師同士の付き合いなどなど。


牧師が祈りと説教準備の時間を削れば削るほど、教会の停滞は深刻化せざるをえない。

 

②会衆のうちに祈りの生活が形成・確立されていない

 

牧師の説教の責任は重大である。


しかし、それだけではない。


会衆が、自宅や職場、その他どんな場所でも聖書を読み、祈る生活を形成していないなら、会衆のうちに聖書の御言葉の力が働くのが妨げられる。


 説教がまずいのが最も根本の問題だが、会衆が本当に聖書に親しみ、祈りの生活を送っているときには、なお教会は前進することができる。


会衆が祈りの生活を形成し、確立していないなら、教会の堅固さ・着実さ・確実さは鈍ってくる。

 

③罪が放置されている、罪との戦いがなされていない、神に応答していない

 

御言葉の命が与えられていても、私達の罪はその成長を妨げ続ける。


 御言葉を聞くことで、神の命の力が私達のうちで働き、成長し続けるが、しかし私たちが犯す罪が、その前進と成長をいつも妨げる。


だから、その罪との継続的な戦いがなされなくてはならない。


また、罪を犯したときには、悔い改めて主の道に立ち戻らなければならない。


聞いた御言葉への応答が捧げられなくてはならない。


こういった領域には、厳しさもあり、戦いもある。


 こうした戦いや悔い改めがなされることがないまま、罪が放置されて漫然と時間だけが過ぎて行くことになってはいないか。


牧師も、会衆も、共に罪に対する悔い改めと戦いをすることによって、御言葉の力は豊かに私達のうちに輝いて来る。罪が私達に勝ち続ける限り、教会は停滞を続ける。


 特に、個人でも家庭でも教会でも、御言葉を受けて祈ること、神に応答することにおいて怠慢であったり、その重要さをあなどっているとするなら、教会の停滞は明白にあらわれてくることは間違いない。


 「今の時代は、特に日本は伝道が難しい」と言われるときの、教会停滞の原因の外部的要因については、様々なものがある。


歴史的なものもあろうし、日本人の精神性によるものもあろうし、現代の特殊な状況に起因するものもあろう。


だが、これらは本質的ではない。これらがあることによって、もちろん伝道はより困難になるが、しかしこれらは絶対的な障害ではありえない。


 困難な時代には、教会はよりゆるやかに前進する。


順調な時には、大きく前進する。


教会はどんな時代にも前進し、成長する。


しかし、もし前進と成長を全然しない、ということならば、その原因は私達の罪にあるのだ。


他の事柄に責任転嫁してはならない。


 牧師が説教に全力を注ぎ、会衆は祈りの生活を確立し、牧師も会衆も共に罪を悔い改め、共に罪と戦い続けて行くなら、前進しない教会はない。


成長しない教会もない。


 これが私達の確信であるべきだ。

 







齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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