なぜ日本の教会は停滞・衰退しているのか、というとき、「罪の問題」が非常に大きな課題となっているように思えてならない。
「良心が罪の意識に苦しめられて、苦悩する」というのは、キリスト者の経験の一部だったはずだ。ところが、最近このような罪に関わる苦しみがほとんど教会でも見聞きされることがない。
アウグスティヌスもマルティン・ルターもジャン・カルヴァンもジョン・ウェスレーも、皆この罪の苦しみのなかからキリストにある救いを見出して行った。
ところが、現代の教会からはこの罪にまつわる苦闘や苦悩がほとんど死に絶えたように思える。
「罪認識」「罪の自覚」が消滅してしまったように見えるのだ。
キリスト者が罪認識を失ったらどうなるか。十字架の恵みも薄れて行き、やがて消えてしまうだろう。
主イエスが十字架に苦しまれたことの永遠の意義が、隠れて見えなくなってしまうのだ。
私達に「罪の自覚」がないことが、私達の教会の前進をおおいに妨げているのではないだろうか。
自覚がなくても、罪は現に私達をとらえているのだ。罪は隠れた形で、猛威をふるっている。自覚と認識がないので、罪は私達の間で好き放題をしている。
私達の教会が罪の自覚へと改めて導かれることが、新しい出発ともなるだろう。
では、なぜ罪の自覚は消えてしまったのか。
それを神の愛との関係で考えてみる。
「罪を犯しているから、神は愛して下さるのだ」そう考える人はおそらくいないだろう。
この考えだと、罪をもっと犯せば、それだけ愛してくださる、ということになる。
罪の完全肯定になる。ここまで極端に考える人はいない。
だが、「罪を犯しているけど、神は愛して下さるのだ」と考える人は大勢いるのではないか。
教会の説教でもこういう言葉を聞くことがある。だが、ここには巧妙に隠されたサタンの罠がある。
こうした言葉によって、またこうしたことを「これはいいや」と安易に受け入れてしまうことで、本心のレベルで罪が肯定されてしまうのだ。
結局、「わたしが罪を犯しても、神は愛して下さるから、今のままでいいんだ」ということになってしまう。
つまり、罪を悔い改め罪を捨てて、新しく神に従って行く、という生活の変化が、この理解だとまったく起こらない。
罪は容認される。罪は別に犯してもいい。
罪を犯しても、神の愛があるから大丈夫だ。こうして、罪を悔い改める必要はなくなる。罪を認識する必要もない。
上の理解が、まるで恐ろしい伝染病かなにかのように日本の教会に広まっているのではないか。
罪を真剣に受け止めず、「神の愛があるから大丈夫」ということで、罪と向き合うことをしない。だから、主イエスの十字架のすばらしさ、ありがたさもよくわからなくなる。
罪は、決して容認できないものなのだ。私たちはどんな小さな罪でも、抱えていたら天国に行けないのだ。
私たちはどんな小さな罪でも、それによって神の前に滅亡するのだ。罪によって、私たちは死という報いを受けなくてはならないのだ。
だから、「罪を犯しているけど、神は愛して下さる」という形で、自分の罪を容認する理解を捨てるべきだ。
そうではなく、「罪を犯しているにもかかわらず、神は愛して下さる」という理解が正しいのだ。
この理解では、罪は容認されていない。罪は否定されるべきものだ。
罪の恐ろしさを真っ向から受け止めて、それにもかかわらず神の愛が罪よりも勝っていることを信じるのである。これが本当の信仰なのだ。
「罪を犯しているけど、神は愛してくださる」だと、私達の生き方や生活、日々の姿勢が変化することはない。現状は肯定され、容認される。
ところが、この「にもかかわらず」の理解だと、私たちは最終的には罪と同居することはできず、罪のすべてを捨て去って神の国へ行かなくてはならないことがふまえられている。
罪は憎むべき、死に値するものであることを認めつつ、なおキリストの愛に信頼する在り方である。
この理解においては、私達の人生は罪との戦いなのである。
どこかで罪と休戦することはありえない。私たちは神のもとに召されるまで、罪と抗争を続ける。
罪を犯して、神の愛を信じて悔い改めて、立ち上がってまた歩み、また罪を犯し、しかし立ち返り、という戦いを続ける。
こうしたなかで、私達の人生全体がいよいよ善きものとされ、聖なるものとされ、キリストの恵みを映し出すものとされていく。これがキリスト者の歩みなのだ。
教会が停滞しており、力を失っているのは、罪を容認し、罪を肯定しているからではないだろうか。
これにより、すべてが現状維持に留まってしまっている。
私たちは生涯、罪と戦いを続けるべきなのだ。
私たちは罪にもかかわらず、主イエス・キリストによって神に愛されている者なのだから。