植村正久の説教を読んでみると、それが現代の多くの教会で説かれている説教と、随分趣が違うことに驚く。
説教題からして、まったく違う面がある。
「三種の求道者」
「基督教の道徳と基督教の信仰」
「文雅の紳士と基督教」
「情欲の霊的解釈」
「都と田舎」
「衣食住」
こういった説教題を、現代の牧師がつけているところは、あまり見かけない。
こうした題の付け方にもあらわれている事柄がある。
植村の説教は明確に「主題的」であり、「弁証的」なのだ。
説教とは「聖書の講解・解き明かしが中心であり命である」として、聖書箇所を一つ一つ綿密に解説する説教がある。
一方で、会衆にとって身近な主題を取り上げながら、会衆の生活と聖書を切り結ぶ形でする説教がある。「主題説教」だ。
さらに、主題的でありつつ、会衆の心のうちにある信仰に関わる様々な疑問や問いかけをまっすぐに取り上げて、説教のなかでこうした問いについての議論を深め、聖書から答えを探るようなタイプもある。
「弁証的説教」と言えるだろう。
植村正久は、「講解説教」に近い説教も残している。
だが、一方でこうした「弁証的説教」も多い。
そして、こちらの方にむしろ植村の真骨頂があるように思える。
キリスト教が根付いていない日本の地で、いかに地に足をつけて伝道するか、というときに植村は弁証的説教の道を歩んだ。
イエス・キリストへの信仰が日本の地に「受肉」していくために、植村の弁証的説教は改めて受け止め直すべきテーマだと思う。
これまで、さまざまな機会にさまざまな説教を聞いてきたが、そのなかの多くは「受肉する説教」であるよりも、「頭のうえをすっぽ抜けて行く説教」だった。
語られていることは教理的にまったく正しいし、聖書に即している。
しかし、会衆が日々格闘している生活の次元に触れて来ない、もしくは日々心に感じている疑問や重荷をまったく取り上げない説教が多かった。
そうした説教も用いられる時があると思うし、それらをすべて否定しようとは思わない。
しかし、特に「日本伝道」という生活の座を考えるときには、厳密な「講解説教」よりも、植村的な「主題的・弁証的説教」をもっともっと継承し、これを発展させていかねばならないと感じる。
もちろん、主題的・弁証的説教は、聖書に深く根ざしてものになっていないと、本当に人を救う言葉にはならない。
単なる「よいお話」に終わってしまう危険がある。
聖書を深く掘り下げつつ、同時にそこに満足せずに会衆の魂のうちに受肉していく弁証的説教を求めて行くのが、今の時代の伝道の最重要の課題だと信じる。