植村正久は、自らの立場を「進歩的正統主義」と名付けて語っている。
この「進歩的」というのは、いわゆる「進歩史観」や「科学の進歩」というときの単純な意味よりも、一層深いものと考えた方がいいだろう。
植村の言う「進歩的」とは、「時代の要求や課題に取り組み、新しい認識と理解、洞察を獲得することによって深化・発展していく」のものということだろう。
「進歩的」とは、ある意味「革新的」なことであり、「新しいものを創造的に取り入れる」ことを意味する。
「保守的」とは反対の意味が含まれうるものだ。
あまりに「進歩的」「革新的」であれば、先達が伝えてきた信仰の原理原則まで変えてしまおう、というモチベーションも生まれてくる。
「処女降誕」「原罪」「贖罪」の意味などを、骨抜きにしていくネガティブな力も働くようになる。
逆に、「正統主義」という言葉は「保守的」に通じるもので、歴史的には「進歩的」とは相いれない面があった。
「正統主義」は、「信仰者として守るべき原理原則」を保持するという意味では重要だったが、それは同時に「教義的に固定化した教条主義」になりがちだった。
宗教改革者ルターやカルヴァンの生き生きとした信仰の認識は、「正統主義化」することによって干からびて形骸化し、生命を失っていった。
この命のなさを是正するために、ドイツに「敬虔主義」が出現しなくてはならなかった。
「進歩的」と「正統主義」は、ある意味では対立概念であり、ここには「緊張関係」が存在する。
「進歩的」であり過ぎると、信仰が壊れてしまい、「正統的」であり過ぎると、硬直して命を失う。
植村正久は、この両者の緊張関係を維持して、この圧力に耐えながら信仰を深めていくことが、信仰者としての「王道」であることを、喝破していたのだ。
時代の課題や要求、新しい認識と学問に対して、開かれた心をもって対峙することで、現代的な理解が与えられる。
しかし、こちらにのめり込むと、信仰の重要な真理を相対化し、失いかねなくなる。
これに対し、祈りをもって立ち向かい、新しい時代的認識と「正統主義的信仰」をすり合わせ、「正統主義」の内容はしっかり保持しながら、これを「新しい言葉と理解」をもって深化・発展させつつ語り直して伝道する。
これが、伝道と神学の王道なのだ。
「進歩的」に傾くか、「正統主義」に傾くかした方が、新たに考え続けなくていいため、精神的には楽だ。
植村は、この楽な道を排して、両極の緊張のなかにとどまり、信仰が深化発展していく創造力を発揮するべきことを示してくれている。
私自身は、日本伝道をしていくうえで、この植村の「進歩的正統主義」よりもよい立場というものは、今のところ存在しないと思っている。
「革新」も「保守」も、あまりにどちらかに傾斜する精神的安易さを脱さないなら、将来はないのではないか。
この路線はいばらの道であるが、この道の先に将来が開けるものを信じる。
植村の生涯を記した以下の著書に「進歩的正統主義」について書かれている。