私が日本の牧師・神学者のうちで最も影響を受けたのは、植村正久だと思う。
私の母校は東京神学大学で、植村の建てた「東京神学舎」がその前身だから、当然といえば当然だ。
プロテスタント全体としては、自分はマルティン・ルターやカール・バルトを故郷のように感じるが、「日本人」のキリスト者としては植村正久に最も共感するところが大きい。
彼の「日本とキリスト教」について書いたエッセイは、「ナショナリズムに染まっている」という批判もあるかもしれないが、しかし熟考すべき問題だ。
植村は明治のキリスト者として、「日本」を愛していた。彼は天皇や皇室に対しても、素朴な尊敬を抱いていた。
彼の日本への愛が、「日本の教会は日本人によって運営される、国民の教会にならなくてはならない」という「欧米の教会からの独立論」の論陣を張ることにもつながった。
また、彼が宣教師との微妙な対立をも経験したのは、日本というものを真剣に受け止めるところに根があったように思う。
「公会主義」といわれる、日本独自の無教派的教会を目指す、という初期の信条についても、「日本伝道のためには『教派色』はかえって邪魔になる」ということで、明らかにそこに「日本への愛」という契機があったのは確かだろう。
彼の神学の方向性は、「日本伝道のために、独自な国民的な教会を建て上げる」ことにあり、それは必ずしも「教派」を日本に移植することではなかった。
これが植村の長所であり、同時に弱点にもなっただろう。
弱点についていえば、彼は今でも「戦争に同調した」牧師として言われることがある。
彼がひいたレールが、太平洋戦争のときに日本が軍部に賛同するきっかけになった、という風に考えられることもある。
これについては、彼の思想傾向に内在していたことだったと言っていいだろう。
強みについては、彼の神学的遺産によって、日本においてキリスト教会は初めて日本社会に根付いたと言えるのではないだろうか。
植村のような方向性を打ち出さず、あくまで「教派の移植」ということにとどまっていたら、たとえば日本基督教団が現在のような形になったかどうかは疑問だ。
いま、日本のキリスト教会のなかに、どれだけ「日本への愛」があるかどうか、わからない。
明治のキリスト者は、皆この愛に燃えていた。内村鑑三も、新渡戸稲造も、植村正久も。
教会は「主の教会」だから、もちろん普遍的な教会であり、「日本」という国家によってそれが区切られるものでもない。
しかしだからといって、自らが生かされている現実を度外視した神学は、「仮現論」的な神学として、まったく現実に根付くものとならない。
植村は、公同的な神学を豊かに継承しながら、日本社会に教会を根付かせる方向で力強く神学した牧師だと思う。
彼の神学について、新たに受け止め直す必要がある。
彼の味わい深い説教から読んでみると、彼の内面の深みを味わうことができる。