日本基督教団の特性④ 「ロゴス的」であること

 日本基督教団の特性として、「ロゴス的」というわかりにくい表現を使って、考えてみたい。

 

「ロゴス」とは「言葉」「理性」「論理」「法則」などを意味するギリシア語だ。

 

ヨハネによる福音書1:1以下でイエス・キリストが神の「言」と言われているが、この「言」は原語で「ロゴス」となっている。

 

世界を創造された神の言葉が、イエス・キリストであったことが言われている。

 

人間の理性や言葉は、イエス・キリストが創造されたものとして、ご自身の特性を多少なりとも反映している。

 

聖書や説教を読み聞きして、信仰に目覚めていくのも言葉という媒体による。

 

他者の内面との交流は、基本的には言葉においてしか成立しない。これは非常に重要な点だ。

 

根本論はさておき、「理性的」「論理的」「言語的」な部分を探求し、実践していくことが、日本基督教団の特性としてあるのではないか、ということだ。

 

これはなにも、日本基督教団ばかりか、宗教改革の精神を継承するプロテスタント諸派すべてに共通することだ、というのはそうだろう。

 

だが、他の諸派と比較しても、日本基督教団独自の「ロゴス的」な部分があるのではないかと思われる。

 

日本基督教団は「合同教会」であって、多くの教派が合同して成立している。

 

「日本基督教団信仰告白」を教えの面での基本的な一致の基礎として合同しているわけが、これは「簡易信条」であって、教派的な一致の「最低限のライン」を示すものにほかならない。

 

「これだけにおいては最低でも一致し、他の部分については自由かつ創造的に展開する余地を残す」ものとして、日本基督教団信仰告白はあると言える。

 

ある意味では日本基督教団は、その信仰告白において最低限の一致をし、「最大限」の部分については各教派の伝統や新しい神学的な学びと実践などを蓄積することで、創造的に伝統を構築してそのフロンティアを拡大していくべきものとして構想されている、ということではないかと思う。

 

各旧教派的な伝統(メソジスト、改革長老、会衆、バプテスト・・・)が、それぞれの引き継いでいる伝統を背負いながら会議によって教団の形成を進めていくということは、そこで不可避的に伝統の「すり合わせ」が要求されることになる。

 

つまり、「自分とは相対的に異なる教えを受け継いでいる人との対話」が要請され、これに応答しなくてはならない。

 

教団の場合は、これが「合同教会」である以上、「半強制的」とも言えるものになっている。

 

「ある特定の教派的伝統の枠内の議論だけで満足していることを許さない」ということが、教団の構造には含まれている。

 

地区や教区、教団でなんらかの会議をするとなれば、これは避けることができないものだからだ。

 

自分とは異なる伝統を抱く他者との交わりや対話を通して、自分のこれまでの伝統や神学的立場が問いに付されるということは、「信仰の言葉や神学的論理の面で、常に問いに付され、新たに思考し直すよう、チャレンジされ続ける」こととなる。

 

ある立場に「安住する」ことを許さないことによる、ロゴス的な探求と創造性の発露、ということが日本基督教団の構造などには意図されているのではないか。

 

そういった刺激を栄養分としながら、信仰告白を最低限の一致点として、信仰の豊かさの「最大限」のフロンティアを拡張していくように、「言葉」を取り入れ、研ぎ澄ませていく、という特性が日本基督教団にはあると言える。

 

平たく言って、「理性的に聖書に向き合い、信仰の広がりと深みを言葉で探求していく」ために、必要な栄養や資源、教派的な構造などが日本基督教団には与えられている、ということだ。

 

そこに属する牧師や信徒も、「ロゴス的」「理性的」なものに自分との親和性を見出す人が多くなる、ということでもあるだろう。

 

さらに、「学問」的なものとの関連性も多くの意味で深くならざるをえない。

 

教会の特性として「議論」したり「語り合う」こと、「学ぶ」ことを重要視する、という特性も生じうる。

 

「パトス(情熱的)」と「エトス(倫理的)」という言葉を持ち出すと、こういった特性を主とする教派(ペンテコステ派、バプテスト派、ホーリネス、カトリックなど)も連想されるが、日本基督教団と比較すると興味深い。

 

もし、日本基督教団が「ロゴス的」な特性を持っており、この探求が重要な要素としてあるなら、礼拝の文脈では「説教」や「祈祷」の在り方が、日本基督教団の霊性や神学、信仰において本質的に重要な位置を占めるのは言うまでもない。

 

こういった部分で、ロゴス的な深さや広がりが消え、内容が枯渇していくなら、それが日本基督教団の衰退の本質にもなるだろう。

 

またこれらはいったいどのように回復していくのか、という問いが、教団の再生への問いにもなる。

 

ごく単純に「牧師がどれくらい勉強しているのか」が、反映しやすいのが教団であると言えるかもしれない。

 

また、「理性やロゴス的なものに、現代の時代精神がどれくらい許容的・積極的か、もしくは消極的・否定的か」によって、教団の「教勢」はかなりの影響を受ける、という社会学的な議論もできる。

 

この主題は非常に深く、また広範なものなので、正直広げ始めるときりがない。

 

とりあえずはここで終わりたいが、また別の文脈でも論じていきたいと思う。

 



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