教会の衰退について④ 神の報いは「ごく小さな事への忠実さ」で決まる

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教会が衰退しているのは、聖化の歩みにおいて神からのより大きな報いを受けるべく、神の命令に従うことにおいて熱心ではなくなっているからだ、ということについて描いてきた。

 

聖化における「報い」とは、「10の町の支配権」といった主イエスの「ムナのたとえ」の言葉に象徴されるような、「キリスト者・教会としての霊的影響力・影響範囲」といったものと、まずは考えることができる。

 

このような影響が拡大することは、「より多くの管理責任を主イエスから委ねられる」ことであり、「そこから生じる実りを享受できる」ことをも含んでいると言える。

 

キリスト者・教会としての霊的影響力が増大すれば、受洗者も起こされ、ひとりひとりが霊的に成長してその証しもより広範な影響を及ぼすようになり、教会としてのあらゆる意味での地盤は確固たるものになっていく。

 

「教会の衰退」とは、以上のような「キリスト者・教会としての霊的影響力」が衰退することである、と概括して言うことができるだろう。

 

キリスト者・教会としての聖化への歩みはもちろん、聖霊なる神の御業であり、神の命令に従う力を神ご自身から与えられないなら、聖化の道に進むことなど、最初からできはしない。

 

聖化の停滞・衰退が生じるということは、聖霊なる神の御業には不足や誤りがあるはずがない以上、人間側のなんらかの課題に信仰的原因を想定せざるをえない。

 

聖霊なる神の御業がなされているのに、私たちがそれに参与しない、怠慢である、もしくは聖霊の導きに逆らうようななんらかの罪を犯しているから、

 

もしくは罪を犯しながらそれに気づいていないから、気づいても悔い改めないから、聖霊の御業を私たちが妨げることで、停滞・衰退は起こるのだ。

 

「ムナのたとえ」(ルカ19:11-27)をもう一度思い起こしてみよう。

 

同じ一ムナを与えられた者でありながら、なぜ人によってそれが「10ムナ」になり、また「5ムナ」となるのか。

 

「主人」の言葉を見ると、「10ムナ」の者には、こう言っている。

 

「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」

 

「5ムナ」の者には主人はこういわれている。

 

「お前は五つの町を治めよ」

 

10と5の間には、主人の言葉に「違い」があることがわかる。

 

「ごく小さな事に忠実だったかどうか」ということが、その違いとして記されている。

 

私たちに預けられているのは、神の「1ムナ」という互いに違いのない、「義認の恵み」だ。

 

同じ義認の恵みを受けていても、その後の歩みにおいて「ごく小さな事においても、イエス・キリストに忠実に生きたか、どうか」という点では、大きな差異が生じてくる、ということだ。

 

これを敷衍して解釈すると、私たちの毎日は「イエス・キリストへの忠実さ」をテストされている日々だ、ということであろう。

 

私たちの毎日は「ごく小さな事」の果てしない積み重ねから成り立っている。

 

それらすべての小さな事に取り組むことにおいて、「イエス・キリストへの忠実さを示しているのか」を主イエスご自身がご覧になっている、ということだ。

 

一例として「祈り」をあげてみよう。

 

一日のなかに、心を神に向けて「祈ることができる時間」はかなりあるように思われる。

 

かなり多くの「隙間となる」時間があるし、朝・昼・夜にそれぞれ、祈ることができる時間は各自に与えられている。

 

そういった祈ることができる時間が与えられているのは、「ごく小さな事」であるが、その時間をどの程度神のために使っているか、主イエスはご覧になっている。

 

ごく小さな時間でも、聖化の歩みをするために使っている人は、結果的により大きな霊的影響力を主イエスからいただくようになる。

 

しかし、「まあ、こんな短い時間では、祈っても祈らなくても、たいした違いはないだろう」と日々考えて、祈りを延期しながら歩むなら、

 

そのままの状態で数年、数十年が経過するときには、「祈りが可能だった膨大な時間を祈らずに過ごした」ことになるだろう。

 

これは生活の「すべて」について言えることだ。

 

聖書の黙想、教会での奉仕、献金など、すべてにおいて私たちは「ごく小さな事に忠実であるかどうか」を主イエスによって毎日試みられているのだ。

 

時に痛みを覚えながらも、主イエスに対して、ごく小さな事に忠実であろうと生きた人は、

 

主イエスからそれにふさわしいだけの霊的影響力を託され、それを行使してより大きな神の栄光を求める歩みが可能となる、ということだ。

 

教会が衰退しているというとき、私たちに問われているのは、「神のための大事業をしているかどうか」ではない。

 

そもそも、「神のための大事業」も、細分化すれば「ごく小さなことの積み重ね」にほかならないのだ。

 

「毎日のごく小さな事において、主イエスに対して忠実であるかどうか」ということの程度により、私たちがキリスト者・教会としてどれほど霊的に成長し、影響力を主イエスから託されるかどうかが、決まる。

 

もし教会がおおいに衰退しているとするなら、それはごく小さな事に対する忠実さがおおいに衰退しているということを示す、霊的事実が顕現した「しるし」であるということだ。

 

主イエスの御元に立ち戻り、これまでのすべての不忠実の罪を告白して

 

「ごく小さな事に忠実である、善き僕」へと造り変えて頂くよう、主イエスに嘆願していこう。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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