教会の衰退について考えるとき、聖書が示しているヒントを取り上げて熟考することは最も重要な課題だ。
聖書のなかに「教会の衰退」を明らかに描いている箇所は、いくつかあると思われる。
そのなかでも最も象徴的かつ絶大な意味を持つのは、旧約においては「バビロン捕囚」であろう。
旧約の歴史はその多くの記述が、バビロン捕囚をどう解釈するか、という信仰的モチベーションによって導かれている。
バビロン捕囚は南王国ユダの滅びであり、「神が選ばれた民の滅亡」として、信仰的に「あってはならないこと」であり、「解釈が最も困難な歴史的出来事」でもあった。
バビロン捕囚に至った理由については、特に歴代の王たちの「偶像崇拝」の罪が原因として指摘されている。
このバビロン捕囚を、「教会の衰退」の最終形態である「旧約的シンボル」と考えると、いろいろな現代の教会のことを考えるうえで、多くのヒントが与えられるし、不可避の課題であると言える。
神の民が「罪を犯し、その罪を自覚することもなく、また悔い改めることもない」といった状況に陥ったときのことを考えてみよう。
そのとき、神はどのようにその民を導かれるだろうか。
第一段階 御言葉をもって警告される。
預言者が派遣され、罪の認識と悔い改めをするようにとの警告がなされる。
第二段階 罪の自覚と悔い改めをもたらすような苦難が与えられ、その苦しみによって警告される。
歴代の王たちが外敵におびやかされたり、病気になったりなどの苦難を与えることで、罪の自覚と悔い改めをうながす。
第三段階 滅びを通して救いに至らせる。
これが究極だが、滅びに至らせることによってかえって新しい世代が復活できるようにされる。
バビロン捕囚は、第一段階、第二段階も功を奏さず、第三段階に至ったものとして、考えることができる。
もちろん、こういったすべてが「神の計画だった」ということはできるが、だからといって人間の罪を無視したり、軽んじることはできない。
また、人間の責任が免除されるわけでもありえない。
バビロン捕囚は、あくまでも神の誠実さや力の不足ではなく、イスラエルの民の罪の結果なのだ。
ところで、私たちの時代の教会においては、どのような状況にあるのだろうか。
少なくとも、「教会が衰退している」という現象を深刻にとらえるなら、「第一段階・第二段階」はすでに起こっているのではないかと思われる。
御言葉による警告、神からの苦しみによる警告の「しるし」は、日本の教会の随所に顕現しているのではないだろうか。
「神の裁きのしるし」として解釈しなくてはならないようなことが、現実に多く示されているのではないか。
最近、教会関係のニュースには心を暗くされるものが多く、本当に気が滅入るものがある。
教会ばかりか、その関係施設や学校法人などに至るまで、「感動の証し」「励まされる証し」「希望がもてる証し」になるようなニュースの聞こえてくる頻度は、恐ろしく低い。
たまにそういった話題があったかと思うと、その多くが海外での話だ。
つまりさきほど描いた大枠のフェーズとしては、これから「第一段階・第二段階の複合・頻発」の段階を経て、「第三段階」に至るのではないかという予測が成り立つ。
つまり、「バビロン捕囚」をなんらかの意味で連想させるような、滅びを予感するような「なにか」が起こる手前の歴史的段階にあるのではないかと思われる。
これはごく現実主義的・悲観主義的な見方かもしれないが、旧約の歴史に照らすと、このような歴史解釈も可能ではないか。
私たちは罪の自覚と悔い改めを通して、つまりユダの「ヒゼキヤ」や「ヨシヤ」がなしたような大規模な改革により、新たな時代を築くことができるのか。
それとも、彼らと同じように、改革の熱情によって抵抗しながらも、人間の原罪の力のあまりの強さのゆえに、最善を尽くしてもバビロン捕囚は不可避であるのか。
主イエス・キリストが来られた今、別の道もまた、ありうるのか。
ユダの民と「同じ轍」を踏まないような「生命の道」が、イエス・キリストの救いにより可能となるのか。
どちらにしても、今私たちは教会史における大きな節目になる瀬戸際に置かれているのではないかと胸騒ぎと不安を覚えると共に神に、「憐れみ給え、救い給え」と祈らざるをえない。