「バビロン捕囚」の神学的意味を考えてみたいと思う。
バビロン捕囚が起こったのは、イスラエルの民の「偶像崇拝」の罪による。
当時の偶像崇拝とは周辺諸国のバアルやアシェラ、アシュトレトなど他国の神々のシンボルとなる像を拝み、その神々に基づく生き方をすることだ。
偶像崇拝の罪については非常に奥深いものがあるが、その重要な一つの面として、「他国の」神々ということがある。
イスラエルには「アブラハム、イサク、ヤコブの神」がおられるのだが、その神の支配を忘れるか、無視するかして、「他国の神々」に心を向けていくことが、偶像崇拝の本質の一つだ。
特にイスラエルで問題となったものに「バアル崇拝」があるわけだが、そのバアルというのは「豊穣神」であり、天候とそれによる農作物の収穫をつかさどる神で、「経済的豊かさ」のシンボルであったと言える。
こういった他国の神々にイスラエルが心を向けるということの背景は、「自分たちを統治してくださっている神だけでは無力であるから、他の国の神々の力にもより頼まなくてはならない」という考えがあったであろう。
「イスラエルの神」と「他の神々」との間の関係性として、いくつかの段階がありうる。
1 イスラエルの神のみ信じる。
いわゆる「唯一神信仰」であり、最も純粋なもの。
2 イスラエルの神に、他の神々を「補足・補充」として信じる。
これはリチャード・ニーバーの類型だと、「イスラエルの神を最高神として他の神々をその従属とする一神教」と言える。
唯一の神への信仰の徹底性に「翳り」「妥協」が生じている。
3 イスラエルの神と、他の神々を「並列・同列」として信じる。
これはニーバーの類型では「多神教」であって、「イスラエルの神も信じるが、他の神々も同じくらい力あるものとして信じる」ということになる。
以上の3類型に基づくと、「1」以外はすべて、聖書の預言者的信仰的においては「偶像崇拝の罪」として排撃されていると思われる。
つまり、信仰がフェーズ「1」から微妙な妥協と歴史的圧力のなかで「3」の方向へとグラデーションを描きながら堕落していくことの全体が、「偶像崇拝」の罪と言える。
そして、その段階はそのまま、「イスラエルの民のアイデンティティの喪失」と同義であり、「自分たちの存在根拠を否定して、他国のアイデンティティに乗り換える」ことだと言える。
ところで、現代においても同じことが起こってはいないだろうか。
私たちも、旧新約聖書つまり使徒と預言者のアイデンティティや「聖書」という正典テキストではなく、それら「以外」の「他分野」「他領域」「他のテキスト」をアイデンティティの根拠としていないだろうか。
私たちは教会で、何を根拠に、誰を信じているのだろうか。
ここで問いたいのは「表面上」「教会的・教理的建前」のことではなく、「深層意識」レベルの「本心」のことだ。
私たちは魂の底から、本当に「三位一体の神」を信じているのか。
それとも、それはひとつの「教会的・教理的建前」であって、「深層」のレベルでは「豊かさ」や「権力」、「自分の自我」などを「神々」として、信じているのではないだろうか。
「自分のポリシー」や「自分の権利」や「自分の業績」、「自分の知識や経験」という「他国の神々」が信仰上の「本音」になってはいないだろうか。
私たちは「聖書」と「教会の伝統」という一次的・二次的テキストにおいて教会形成をしているのか、それとも「自分の人生訓・経験則」や「個人的価値観」という、遥かにそれ以下の私的テキストによって教会形成をしているのか。
「建前」がはがれ落ちたところで、そういった「本音」が教会と自分の意識を支配して、自分でも制御不能になってしまうところはないだろうか。
今生きている神の民の「すべて」がこのような「他国の霊的支配」に隷属している状態であるなら、もはや私たちにとって「バビロン捕囚」は不可避であり、滅びる以外にないのは明らかだ。
むしろ、私たちが滅びることの方が、神の正義にかなっているとさえ、言えるだろう。
それはもはや、聖書的意味においては「信仰」ではなく、「偶像崇拝」だからだ。
そこには良心に根差した「神へのまこと」がもはや、存在していない。
しかし、神がエリヤに告げられたように、「バアルに膝をかがめなかった」人々、「三位一体の神」を徹底して信じる人々がたとえ少数でも残っている限り、なお希望は残されている。
そういった「魂の深層から、本気・本音で信じている」人々が、やがて新しい時代を築くための「切り株」となり、「聖なる種子」(イザヤ6:13)となるだろう。
ただ、その希望が実現するのは生易しいことではない。
耐え難い苦難と歴史的不信仰の重圧のなかを、祈って神に信頼し続けた民が新しい復活の時代、「捕囚後の時代」に到達することになるだろう。