個人的に、最近いろいろ思うところがあって、現代の教会がいろいろな意味で復活するためには「神秘主義の復権」が必要であるように感じている。
「神秘主義」と聞くと、多くのプロテスタントの牧師の先生方は、あまりいい顔をしない。
神秘主義がなぜ嫌われているのか、わたしはよく背景がわからないが、神秘主義は「そこに陥ってはいけない落とし穴」のようなものとして、表現されることが多い。
「そうした解釈だと、神秘主義になってしまう」
「そうした信仰は神秘主義的だ」
「それは神秘主義的だから、よくない」
ときどきこうした言い方がなされるが、わたしはこういうことをおっしゃる方がどれだけキリスト教神秘主義の著書を読んでいるか、よくわからない。
時に、まったく読んでいないような印象を受けることもある。
「神秘」というエキゾチックな言葉が導く「イメージ」に翻弄されている面があるのではないか。
「神秘主義」という言葉によって考えられている内容と、実際の「神秘主義」の数々の著書の間に、おかしな誤解に基づく距離があるように思えてならない。
特にプロテスタントの方々には、神秘主義に特別なアレルギーがあると思う。
カトリックの方々にはアレルギーはない。というのも、カトリックの神秘家のなかに聖人や卓越した神学者が大勢いるから。カトリックでは神秘主義は神学的伝統の大切な一部だ。
もちろん、神秘主義には、真面目なプロテスタントが嫌がるような要素があるのも、確かなことだとは言える。
たとえば、一部の神秘家は、自己の見出した事柄を突き詰めて語るあまり、「汎神論的」な言い方をするところがある。
自己と神が一体であり、同一であるというところにまで突き進もうとする。こうした部分が、多くの方々には、信仰的に「ぶっ飛んでいる」「ありえない」ように感じられ、敬遠されるもとなのだろう。
しかし、彼等は非常に深い宗教体験の深みから語っているので、常識的でない表現を使わざるをえないところがあるのだ。それを理解しようと努めることもなく、一般的・常識的神学で「切って捨てる」ようなことをするのは、大変残念なことだと言わざるをえない。
特に思い起こすべきは、宗教改革者マルティン・ルター自身が、神秘主義的神学からおおいに学んで、神学を構築していることだ。
彼はタウラー、『ドイツ神学』、ベルナールといった神秘主義神学から、非常に多くのことを吸収している。ルター自身も、深い神秘体験を経験している。
そして、ルターなりの神秘主義を自らの神学の一部として展開しているのだ。
ルター神学の根底には神秘主義がある。この事実は否定することができない。
これは、宗教改革の神学の根本部分に、神秘主義的な信仰が位置づけられているということでもある。
そして、現代の教会の信仰がどこか信仰的な生命の躍動感に欠けているのは、神秘主義的な霊性を失っているからではないか、と考えざるをえない部分がある。ルターにはあって、今のプロテスタントにないものは、彼の内面に躍動していた神秘主義的な霊性ではないだろうか。
こちらの著書は、ルターと神秘主義の関連を描いたものとして、最高のクオリティとすばらしい内容になっている。これだけ読めば、ルターと神秘主義についてはほとんどの関連について網羅されていると考えていい。
心からお勧めしたい。非常に高価だが。