キリスト者の自由 「君主」であり「奴隷」

 マルティン・ルター - Wikipedia

ルターの書いたもののなかで、最も深く、そして最も簡潔にキリスト教の信仰を要約しているのは、「キリスト者の自由」だろう。

 

このなかで、ルターはキリスト者の二重性を語っている。

 

キリスト者は、「君主」であり「奴隷」である、というのだ。

 

「君主」とは、「自由」ということだ。

 

キリスト者はイエス・キリストへの信仰において、君主のような自由を与えられている。

 

これは、「良心の自由」と言い換えてもいい。

 

律法や、人間の掟に拘束されず、罪の赦しを信じて、聖霊なる神の導きに従って自発的な喜びを生きる、という自由だ。

 

キリスト者は、神以外のなにものにも支配されたりしない。キリスト者にとって、自分を支配するものは神のみだ。この神の導きのままに、神に守られて生きる。

 

「それでは、キリスト者は自由奔放に、自分の好きなように生きていいのだな」という声が聞こえてくる。

 

それに対してルターは、「いや、キリスト者は君主のように自由な者だが、愛において隣人に奉仕する奴隷でもあるのだ」という。

 

キリスト者はイエス・キリストにあって自由だからといって、それは「勝手気まま」ということではない。

 

むしろ、その自由を「奉仕」のために使って行くのだ。

 

キリスト者は、良心においては神以外のなにものの支配をも受けず、自由を享受するが、肉体においては隣人愛においてひたすらに隣人や社会に奉仕して貢献するものなのだ。

 

このような、「神への愛」と「人への愛」という事柄を、「君主のような自由」と「愛における奴隷」という対比において、見事に描き出しているのが『キリスト者の自由』だ。

 

ここに、信仰生活の真髄が描かれている。

 

「信仰の原点に立ち戻りたい」という願いを持っている方は、ぜひご一読を。

 




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