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コロナウイルスと教会④ 「生存」か、「使命」か

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp


コロナウイルス騒動のため、近所のスーパーに行ったら、トイレットペーパーが売切れていた。

 

アマゾンを見ると、マスクが1万円以上で売られている。

 

消毒用のアルコール等もまた、店頭から姿を消している。

 

当然といえば、当然かと思われるが、なんだかもの悲しい。

 

主イエスの御言葉がいろいろ思い起こされるが、特に以下のたとえ話が胸を刺す。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ルカ12:15-21(新共同訳聖書より)

 

「どんな貪欲にもよくにも注意を払い、用心しなさい。

 

有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」

 

それから、イエスはたとえを離された。

 

「ある金持ちの畑が豊作だった。

 

金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』

 

やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。

 

『さあ、これから何年先も生きていくだけの蓄えができたぞ。

 

ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

 

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。

 

お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

 

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この金持ちは、自分の命は財産によって「なんとかすることができる」と考えていた。

 

これはごく一般的かつ常識的な考えだと思う。

 

ことさらに悪いようにも思えない。

 

お金をたくさん持っている人の方が、より物資や生活必需品を蓄えている人の方が、サバイバルできるのは当然ではないか。

 

しかし、神はこの金持ちを「愚かな者よ」と言われた。

 

なぜなのか。

 

むしろ、この金持ちの「倉庫拡充・ストック爆増サバイバル計画」は、非常に賢いやり方なのではないか。

 

ごく常識的な表層レベルではそう見えるかもしれないが、深層レベルではまったく異なる認識となる。

 

この金持ちは二点について、大きな誤りを犯しており、「愚かさ」を露呈していた。

 

この金持ちは、自分の命を支えているのは「物資」「財産」等の「モノ」だと思っていたが、

 

霊的事実においてその命を支えておられるのは「神ご自身」だったのだ。

 

その神の方をまったく考慮することなく、「物資・モノ」をいわば「偶像化」して、

 

「あれこれのモノがたくさんあるなら、自分は生き残れる」と考えたことが、第一の誤りだ。

 

たくさんのモノがあったとしても、命に対する統治者はあくまで、神ご自身であって、

 

私たちはある意味、どのような理由においても、どのような時期であっても、神のもとに召されうる存在だ。

 

パスカルが言うように、一滴の水や蒸気であっても、私たちを殺すものになりうる。

 

「生き残るために行動する」という側面と共に、「生かされている」事実を思い起こしたい。

 

第二の誤りとして、この金持ちはモノをため込むことによって「自分の命」が豊かにされると思った。

 

しかし、その命を「なんのために使うのか」という「使命」については、なんの考えもなかった。

 

「命」について、ただ延長する・拡張するということだけに意義を見出していた。

 

この人は「生きるためになにをするか」という「生き残る」方法論には長けていた。

 

しかし、「なんのために生きるのか」という「よりよく生きる」ことには考えが及ばなかった。

 

「神の前に豊かになる」とは、「自分の命を神のために使う喜びにおいて、豊かになる」ということだろう。

 

命が「続く」ことは言うまでもなく重要なことだ。

 

同時に、その命をどう「使うのか」と問うことも、同じくらい重要だろう。

 

「あれか・これか」ではなく、両方の視点が重要であるはずだ。

 

あの金持ちが「愚か」だと神によって言われるのは、「生存」の視点はあっても、「使命」の視点がなかったことによる。

 

ウイルスが流行し、命が「続くか、どうか」に意識を使わなくてはならないような、厳しい日々だ。

 

このとき、「生存」のことばかりが思い浮かんでしまうのは、人間として仕方がないと思うし、それもまた重要な課題だ。

 

だが、それだけでこの時を終わらせずに、

 

「これから自分が生かされたとして、その命をどう使おうか。神様のためにどんなことを、させて頂こうか。なんのために生きようか」

 

このことを黙想しながら歩みたい、と願うものだ。




コロナウイルスと教会③ コロナウイルス流行中の教会で想う「ニーバーの祈り」と「ルターの名言」

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp

 

コロナウイルスが世界的に流行中で、「パンデミック」も憂慮されるほどの事態になっている。

 

毎日ニュースで、「あの国でも感染者が増えた。ここでも一人でた。あそこでも・・・」と言われ続けている。

 

その対策として、「外出しないように、人ごみに行かないように、店にも警戒を・・・」といろいろな人が言っている。

 

「マスクがない」「買占めが・・・」「デマが・・・」「人の本性が・・・」

 

「政府の対応はマジで・・・」「他の国のやり方は・・・」「中国が・・・」「クルーズ船が・・・」「緊急事態宣言が・・・」

 

「カトリック教会では・・・」「~教会の礼拝は中止・・・」「教団の対応は・・・」「卒業式は・・・」「一斉臨時休校が・・・」

 

正直な感想は、「ふー、なんだか、グッタリ疲れた」ということだ。

 

精神的な深く重い「気だるさ」にいつも包まれている。

 

この重苦しい感覚で思い出したのは、熊本・大分地震で被災したころの緊張感や精神的に張り詰めた感じだ。

 

多くの人の不安や焦燥感がこちらにもピリピリ伝わってくる、痛いような息苦しさを、当時も覚えていた。

 

身体が緊張すると、疲労していても疲労感を感じにくくなったり、睡眠時間が急激に減ったりする。

 

脳内伝達物質の分泌のせいだろう。震災のときもそうだった。

 

私たちの身体に火がついて「サバイバル・モード」になっているサインかと思われる。

 

恐怖や不安などで、自分の余裕や心理的キャパシティが極端に小さくなると、本当にささいやことで怒りがこみあげてきたりもする。

 

普段は抑制することができる怒りさえ、爆発させてしまうこともある。

 

人間の愛のなさに失望し、「嘆かわしいことだ」と言いながら、自分もまったく同じことをしてしまい、「あんなことを言っている自分も愛がない」などと、堂々巡りの思考を繰り返したりもする。

 

こういった失望と疲労、倦怠、焦燥等の感覚が日本中を包んでいるような印象を個人的には受けている。

 

コロナ・ウイルス関連情報の洪水で心が飽和状態を越えて、疲労と鈍麻に陥ってしまいそうだ。

 

そんなとき、ラインホールド・ニーバーの有名な祈りが思い起こされた。

 

以下の祈りだ。

 

「神よ、変えることができるものを、変える勇気をお与えください。

 

変えることができないものを、受け入れる平静をお与えください。

 

そして、変えることができるものと、変えることができないものを、見分ける知恵をお与えください」

 

この祈りを現在の状況と重ねて読んでみると、あまりフィットしないことに気づく。

 

この祈りとは、私たちの多くのコンテクストは遊離しているのではないか。

 

私たちは「変えたいもの」がありすぎて、それらを変えようとして疲れてしまっている。

 

「変えることができないもの」もありすぎて、受け入れられずに疲れてしまっている。

 

両者を見分けるための参考にする情報も、「いろいろな人の意見」もありすぎて消化できず、疲れてしまっている。

 

これらすべてが、「飽和」してしまっているのだ。

 

そのため、この祈りを読んでも胸に響かないものになっているように思える。

 

そこで、ニーバーの祈りをコロナウイルス状況に個人的解釈も含めてアレンジし、

 

より現在のコンテクストとして適切なものにすると、以下のような祈りになるかもしれない

 

・・・・・・・・・

 

「神よ、変えることができるものを、変えることができるとしても、

 

変えることなくあなたに委ねる勇気をお与えください。

 

変えることができないものを、受け入れられないとしても、

 

そのような自分や隣人を赦す平安をお与えください。

 

そして、変えることができるものを変える勇気や、

 

変えられないものを受け入れる平静にまさる、

 

あなたの御元にある安息をお与えください」

 

・・・・・・・・・・・

 

以上の祈りは、場合によっては「思考停止の祈り」「行動放棄の祈り」と映るかもしれない。

 

しかし、「思考停止」や「行動放棄」がかえって、創造的な選択になることもある。

 

そうすることによって英気を養うことによってしか、解決できない課題もあるのではないだろうか。

 

休んで力を回復させるためには、積極的・意図的に「考えないこと」「ゆっくりすること」と選び取ることが必要なこともある。

 

そんな視点が必要な時かもしれないと感じ、書かせて頂いた。

 

高いクオリティの「動」は、同じくらい深いクオリティの「静」から生じてくる。

 

「静」なくしては、「動」のクオリティは低下し続けてしまう。

 

「コロナウイルス」というワードを見ないようなところで、そういったことを思い出すことのないような静かな時間や活動に、神に委ねきって取り組むことも大切なのかもしれない。

 

もう一つ、マルティン・ルターの名言として、個人的に非常に好きなものがあるので、ご紹介したい。

 

「私がドイツ・ビールを飲んでいるときにも、神は御業を進めておられる」

 

ルターが礼拝後、説教の効果や受け止められ方について思い煩うのをやめて、ビールを飲んで気晴らししていた時の言葉かと思われる。

 

品のない、不謹慎な言葉にも聞こえるが、個人的にはルターの大物さとユーモアが感じられ、大好きな言葉のひとつだ。

 

これも、多少アレンジしてみると、

 

「私がコーヒーを飲みながら無意味にユーチューブで漫才を見ているときにも、神はコロナウイルスを終息に導かれておられる」

 

ご参考にしてください。





コロナウイルスと教会② 「コロナウイルス流行中の教会に、使徒パウロだったらなんと言うのか、シュミレーションしてみた」Ⅱ

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ローマの信徒への手紙14:6-15:6 コロナウイルス翻案バージョン(新共同訳 日本聖書協会より)

 

 

(後編)

 

 

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

 

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。

 

従って、生きるにしても、死ぬにしても、感染してもしなくても、わたしたちは主のものです。

 

キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、

 

信頼している人にも恐れている人にも、主となられるためです。

 

それなのに、なぜあなたは自分の兄弟姉妹を恐れにかられて裁くのですか。

 

また、なぜ兄弟姉妹を信仰が足りないと言って侮るのですか。

 

わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

 

こう書いてあります。

 

「主は言われる。

 

『わたしは生きている。

 

すべてのひざはわたしの前にかがみ、

 

すべての舌が神をほめたたえる』と」

 

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて、ウイルス流行にどう向き合ったかということさえも、神に申し述べることになるのです。

 

従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。

 

むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置かないように決心しなさい。

 

あなたの攻撃的な、また侮蔑的な態度によって兄弟姉妹が心を痛めるなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。

 

ウイルスへの対応のことで、兄弟姉妹を傷つけてはなりません。

 

キリストはそのような人々のために死んでくださったのです。

 

ですから、あなたがた各自の善意の対応や意見、考え方が、そしりの種にならないようにしなさい。

 

神の国は、ウイルスへの対応の是非によるのではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

 

平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

 

一人ひとりの対応は善意によるものですが、それで人を罪に誘う者には悪い物となります。

 

自分にできる対策はしっかりと講じ、そのうえほかの兄弟姉妹の魂と身体に配慮することが望ましい。

 

自分の良心に神と隣人へのやましさを感じない人は幸いです。

 

ウイルスを過度に恐れない、神への信頼が強い人は、警戒心や恐怖感の強い人の思いをも担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。

 

おのおの、ふさわしい対策を講じて隣人に配慮しつつ、互いの安全ととりなしの祈りに努めるべきです。

 

キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。

 

「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。

 

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものなのです。

 

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、ウイルス流行もまた、神の憐れみにより終息する希望を持ち続けることができるのです。

 

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

 

心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、癒し主である方をたたえさせてくださいますように。

 

 

(翻案おわり)

 

・・・・・・・・・・

 

いかがだっただろうか。

 

一部、「グサリ」と胸に刺さる言葉があったのではないだろうか。

 

私自身もこれを書きながら、パウロに自分の良心をグサグサ刺された気分になった。

 

正直、まったく気持ちのよいものではない。

 

神の前では、「自分は正義の味方です」という顔は、だれもできないことを思い知る。

 

しかし、神の言葉とは、まさしくそのような罪の自覚と清めをもたらすものではないか。

 

神はどのような人をも愛しながら、同時にどのような人の罪にも警告して正し、

 

どのような人をも導いておられることを、いささかでも感じとって頂ければ感謝である。



コロナウイルスと教会① 「コロナウイルス流行中の教会に、使徒パウロだったらなんと言うか、シュミレーションしてみた」(前編)

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コロナウイルス流行のなかで、程度問題はあるにせよ、人々は「二つの態度」に、大きく分かれてきているように感じられる。

 

「安心感が強い人」と「警戒心が強い人」だ。

 

「大丈夫だろう」という思いと、「ヤバいだろう」という思いの両極で、揺れ動いている状況がある。

 

そこで、態度が異なる両者の人々が互いに意見を言うと、食い違いやバッティングが多く生じ、隣人に攻撃的になったりもする。

 

警戒心が強い人は、自分や家族を守ろうとして、政府のやり方を強く批判したり、必要物資を集めようと四苦八苦するかもしれない。

 

安心感が比較的強い人がいてゆったり構えていると、「そんなんじゃダメだ!」と言うかもしれない。

 

逆に安心感が強い人からすると、「恐れて騒いだ方が、かえって大きな問題になる。別の問題だって副産物として生じるのに」とか、「自分がのほほんとしているのは、そんなに悪いことなのか」などの疑問を抱くかもしれない。

 

互いに生きている世界認識のベースが異なっているため、物事の解釈にも相違が生じ、コンフリクト(対立・争い)も起こやすくなる。

 

そんな折、ローマの信徒への手紙で、「信仰の強い人と弱い人」のパウロの言葉が思いこされて、読んでみたところ、これが現在私たちが生きるコンテクストとの並行性の濃度が高いことが感じられた。

 

そこで、試みに「パウロだったらこうしたウイルス流行の状況にある教会に、なにを言うのか」を聖書から翻案してみた。

 

多くの方々が恐れや不安を抱いておられ、「どうしたらいいか」と思案している時なので、こうした主題は非常にきわどいものがあり、慎重を要する部分だろう。

 

しかしあえてリスクを冒し、以下のような翻案をしてみたので、ご参考にしてください。

 

以下はあくまで私個人の解釈に基づく聖書的「シュミレーション」なので、ある意味では現実理解のための「ストーリー」に過ぎないとも言える。

 

しかし、現代の状況において、ご参考にして頂ける部分もあろうかと考えて、やってみることとした。

 

 

・・・・・・・

 

 

ローマの信徒への手紙14:1-6 コロナウイルス翻案バージョン(新共同訳聖書 日本聖書協会による)

 

 

ウイルスへの警戒心が強い人を受け入れなさい。

 

その考えを批判してはなりません。

 

「神に守られているから大丈夫、自分はただ信頼するだけだ」と思っている人もいますが、不安や恐怖が強い人は、どんな手段を講じても、なかなかそれを払拭できないのです。

 

「大丈夫だ」という人は、不安や恐怖を覚えている人を軽蔑してはならないし、恐れをもって数々の手段を講じている人は、そうではない人を裁いてはなりません。

 

神はそのような人をも、受け入れられたからです。

 

神が受け入れられた召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。

 

召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。

 

しかし、召し使いは立ちます。

 

主は、その人を立たせることがおできになるからです。

 

マスクや消毒など、特定の手段を尊ぶ人もいれば、対策についてはおおまかに考える人もいます。

 

それは、各自が担っている責任の範囲で、自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。

 

特定の手段を重んじる人は、主のために重んじる。

 

おおまかに考える人は、主のためにそう考える。

 

神に信頼しているからです。

 

また、危機感や警戒心を重要視する人も、主のためにそうする。

 

そして、神を信頼しているのです。

 

 (後編に続く)







齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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