コロナウイルスと教会③ コロナウイルス流行中の教会で想う「ニーバーの祈り」と「ルターの名言」

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp

 

コロナウイルスが世界的に流行中で、「パンデミック」も憂慮されるほどの事態になっている。

 

毎日ニュースで、「あの国でも感染者が増えた。ここでも一人でた。あそこでも・・・」と言われ続けている。

 

その対策として、「外出しないように、人ごみに行かないように、店にも警戒を・・・」といろいろな人が言っている。

 

「マスクがない」「買占めが・・・」「デマが・・・」「人の本性が・・・」

 

「政府の対応はマジで・・・」「他の国のやり方は・・・」「中国が・・・」「クルーズ船が・・・」「緊急事態宣言が・・・」

 

「カトリック教会では・・・」「~教会の礼拝は中止・・・」「教団の対応は・・・」「卒業式は・・・」「一斉臨時休校が・・・」

 

正直な感想は、「ふー、なんだか、グッタリ疲れた」ということだ。

 

精神的な深く重い「気だるさ」にいつも包まれている。

 

この重苦しい感覚で思い出したのは、熊本・大分地震で被災したころの緊張感や精神的に張り詰めた感じだ。

 

多くの人の不安や焦燥感がこちらにもピリピリ伝わってくる、痛いような息苦しさを、当時も覚えていた。

 

身体が緊張すると、疲労していても疲労感を感じにくくなったり、睡眠時間が急激に減ったりする。

 

脳内伝達物質の分泌のせいだろう。震災のときもそうだった。

 

私たちの身体に火がついて「サバイバル・モード」になっているサインかと思われる。

 

恐怖や不安などで、自分の余裕や心理的キャパシティが極端に小さくなると、本当にささいやことで怒りがこみあげてきたりもする。

 

普段は抑制することができる怒りさえ、爆発させてしまうこともある。

 

人間の愛のなさに失望し、「嘆かわしいことだ」と言いながら、自分もまったく同じことをしてしまい、「あんなことを言っている自分も愛がない」などと、堂々巡りの思考を繰り返したりもする。

 

こういった失望と疲労、倦怠、焦燥等の感覚が日本中を包んでいるような印象を個人的には受けている。

 

コロナ・ウイルス関連情報の洪水で心が飽和状態を越えて、疲労と鈍麻に陥ってしまいそうだ。

 

そんなとき、ラインホールド・ニーバーの有名な祈りが思い起こされた。

 

以下の祈りだ。

 

「神よ、変えることができるものを、変える勇気をお与えください。

 

変えることができないものを、受け入れる平静をお与えください。

 

そして、変えることができるものと、変えることができないものを、見分ける知恵をお与えください」

 

この祈りを現在の状況と重ねて読んでみると、あまりフィットしないことに気づく。

 

この祈りとは、私たちの多くのコンテクストは遊離しているのではないか。

 

私たちは「変えたいもの」がありすぎて、それらを変えようとして疲れてしまっている。

 

「変えることができないもの」もありすぎて、受け入れられずに疲れてしまっている。

 

両者を見分けるための参考にする情報も、「いろいろな人の意見」もありすぎて消化できず、疲れてしまっている。

 

これらすべてが、「飽和」してしまっているのだ。

 

そのため、この祈りを読んでも胸に響かないものになっているように思える。

 

そこで、ニーバーの祈りをコロナウイルス状況に個人的解釈も含めてアレンジし、

 

より現在のコンテクストとして適切なものにすると、以下のような祈りになるかもしれない

 

・・・・・・・・・

 

「神よ、変えることができるものを、変えることができるとしても、

 

変えることなくあなたに委ねる勇気をお与えください。

 

変えることができないものを、受け入れられないとしても、

 

そのような自分や隣人を赦す平安をお与えください。

 

そして、変えることができるものを変える勇気や、

 

変えられないものを受け入れる平静にまさる、

 

あなたの御元にある安息をお与えください」

 

・・・・・・・・・・・

 

以上の祈りは、場合によっては「思考停止の祈り」「行動放棄の祈り」と映るかもしれない。

 

しかし、「思考停止」や「行動放棄」がかえって、創造的な選択になることもある。

 

そうすることによって英気を養うことによってしか、解決できない課題もあるのではないだろうか。

 

休んで力を回復させるためには、積極的・意図的に「考えないこと」「ゆっくりすること」と選び取ることが必要なこともある。

 

そんな視点が必要な時かもしれないと感じ、書かせて頂いた。

 

高いクオリティの「動」は、同じくらい深いクオリティの「静」から生じてくる。

 

「静」なくしては、「動」のクオリティは低下し続けてしまう。

 

「コロナウイルス」というワードを見ないようなところで、そういったことを思い出すことのないような静かな時間や活動に、神に委ねきって取り組むことも大切なのかもしれない。

 

もう一つ、マルティン・ルターの名言として、個人的に非常に好きなものがあるので、ご紹介したい。

 

「私がドイツ・ビールを飲んでいるときにも、神は御業を進めておられる」

 

ルターが礼拝後、説教の効果や受け止められ方について思い煩うのをやめて、ビールを飲んで気晴らししていた時の言葉かと思われる。

 

品のない、不謹慎な言葉にも聞こえるが、個人的にはルターの大物さとユーモアが感じられ、大好きな言葉のひとつだ。

 

これも、多少アレンジしてみると、

 

「私がコーヒーを飲みながら無意味にユーチューブで漫才を見ているときにも、神はコロナウイルスを終息に導かれておられる」

 

ご参考にしてください。





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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