コロナウイルス騒動のため、近所のスーパーに行ったら、トイレットペーパーが売切れていた。
アマゾンを見ると、マスクが1万円以上で売られている。
消毒用のアルコール等もまた、店頭から姿を消している。
当然といえば、当然かと思われるが、なんだかもの悲しい。
主イエスの御言葉がいろいろ思い起こされるが、特に以下のたとえ話が胸を刺す。
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ルカ12:15-21(新共同訳聖書より)
「どんな貪欲にもよくにも注意を払い、用心しなさい。
有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」
それから、イエスはたとえを離された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』
やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。
『さあ、これから何年先も生きていくだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」
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この金持ちは、自分の命は財産によって「なんとかすることができる」と考えていた。
これはごく一般的かつ常識的な考えだと思う。
ことさらに悪いようにも思えない。
お金をたくさん持っている人の方が、より物資や生活必需品を蓄えている人の方が、サバイバルできるのは当然ではないか。
しかし、神はこの金持ちを「愚かな者よ」と言われた。
なぜなのか。
むしろ、この金持ちの「倉庫拡充・ストック爆増サバイバル計画」は、非常に賢いやり方なのではないか。
ごく常識的な表層レベルではそう見えるかもしれないが、深層レベルではまったく異なる認識となる。
この金持ちは二点について、大きな誤りを犯しており、「愚かさ」を露呈していた。
この金持ちは、自分の命を支えているのは「物資」「財産」等の「モノ」だと思っていたが、
霊的事実においてその命を支えておられるのは「神ご自身」だったのだ。
その神の方をまったく考慮することなく、「物資・モノ」をいわば「偶像化」して、
「あれこれのモノがたくさんあるなら、自分は生き残れる」と考えたことが、第一の誤りだ。
たくさんのモノがあったとしても、命に対する統治者はあくまで、神ご自身であって、
私たちはある意味、どのような理由においても、どのような時期であっても、神のもとに召されうる存在だ。
パスカルが言うように、一滴の水や蒸気であっても、私たちを殺すものになりうる。
「生き残るために行動する」という側面と共に、「生かされている」事実を思い起こしたい。
第二の誤りとして、この金持ちはモノをため込むことによって「自分の命」が豊かにされると思った。
しかし、その命を「なんのために使うのか」という「使命」については、なんの考えもなかった。
「命」について、ただ延長する・拡張するということだけに意義を見出していた。
この人は「生きるためになにをするか」という「生き残る」方法論には長けていた。
しかし、「なんのために生きるのか」という「よりよく生きる」ことには考えが及ばなかった。
「神の前に豊かになる」とは、「自分の命を神のために使う喜びにおいて、豊かになる」ということだろう。
命が「続く」ことは言うまでもなく重要なことだ。
同時に、その命をどう「使うのか」と問うことも、同じくらい重要だろう。
「あれか・これか」ではなく、両方の視点が重要であるはずだ。
あの金持ちが「愚か」だと神によって言われるのは、「生存」の視点はあっても、「使命」の視点がなかったことによる。
ウイルスが流行し、命が「続くか、どうか」に意識を使わなくてはならないような、厳しい日々だ。
このとき、「生存」のことばかりが思い浮かんでしまうのは、人間として仕方がないと思うし、それもまた重要な課題だ。
だが、それだけでこの時を終わらせずに、
「これから自分が生かされたとして、その命をどう使おうか。神様のためにどんなことを、させて頂こうか。なんのために生きようか」
このことを黙想しながら歩みたい、と願うものだ。