コロナウイルス流行のなかで、程度問題はあるにせよ、人々は「二つの態度」に、大きく分かれてきているように感じられる。
「安心感が強い人」と「警戒心が強い人」だ。
「大丈夫だろう」という思いと、「ヤバいだろう」という思いの両極で、揺れ動いている状況がある。
そこで、態度が異なる両者の人々が互いに意見を言うと、食い違いやバッティングが多く生じ、隣人に攻撃的になったりもする。
警戒心が強い人は、自分や家族を守ろうとして、政府のやり方を強く批判したり、必要物資を集めようと四苦八苦するかもしれない。
安心感が比較的強い人がいてゆったり構えていると、「そんなんじゃダメだ!」と言うかもしれない。
逆に安心感が強い人からすると、「恐れて騒いだ方が、かえって大きな問題になる。別の問題だって副産物として生じるのに」とか、「自分がのほほんとしているのは、そんなに悪いことなのか」などの疑問を抱くかもしれない。
互いに生きている世界認識のベースが異なっているため、物事の解釈にも相違が生じ、コンフリクト(対立・争い)も起こやすくなる。
そんな折、ローマの信徒への手紙で、「信仰の強い人と弱い人」のパウロの言葉が思いこされて、読んでみたところ、これが現在私たちが生きるコンテクストとの並行性の濃度が高いことが感じられた。
そこで、試みに「パウロだったらこうしたウイルス流行の状況にある教会に、なにを言うのか」を聖書から翻案してみた。
多くの方々が恐れや不安を抱いておられ、「どうしたらいいか」と思案している時なので、こうした主題は非常にきわどいものがあり、慎重を要する部分だろう。
しかしあえてリスクを冒し、以下のような翻案をしてみたので、ご参考にしてください。
以下はあくまで私個人の解釈に基づく聖書的「シュミレーション」なので、ある意味では現実理解のための「ストーリー」に過ぎないとも言える。
しかし、現代の状況において、ご参考にして頂ける部分もあろうかと考えて、やってみることとした。
・・・・・・・
ローマの信徒への手紙14:1-6 コロナウイルス翻案バージョン(新共同訳聖書 日本聖書協会による)
ウイルスへの警戒心が強い人を受け入れなさい。
その考えを批判してはなりません。
「神に守られているから大丈夫、自分はただ信頼するだけだ」と思っている人もいますが、不安や恐怖が強い人は、どんな手段を講じても、なかなかそれを払拭できないのです。
「大丈夫だ」という人は、不安や恐怖を覚えている人を軽蔑してはならないし、恐れをもって数々の手段を講じている人は、そうではない人を裁いてはなりません。
神はそのような人をも、受け入れられたからです。
神が受け入れられた召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。
召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。
しかし、召し使いは立ちます。
主は、その人を立たせることがおできになるからです。
マスクや消毒など、特定の手段を尊ぶ人もいれば、対策についてはおおまかに考える人もいます。
それは、各自が担っている責任の範囲で、自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。
特定の手段を重んじる人は、主のために重んじる。
おおまかに考える人は、主のためにそう考える。
神に信頼しているからです。
また、危機感や警戒心を重要視する人も、主のためにそうする。
そして、神を信頼しているのです。
(後編に続く)