ローマの信徒への手紙14:6-15:6 コロナウイルス翻案バージョン(新共同訳 日本聖書協会より)
(後編)
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、感染してもしなくても、わたしたちは主のものです。
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、
信頼している人にも恐れている人にも、主となられるためです。
それなのに、なぜあなたは自分の兄弟姉妹を恐れにかられて裁くのですか。
また、なぜ兄弟姉妹を信仰が足りないと言って侮るのですか。
わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
こう書いてあります。
「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて、ウイルス流行にどう向き合ったかということさえも、神に申し述べることになるのです。
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。
むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置かないように決心しなさい。
あなたの攻撃的な、また侮蔑的な態度によって兄弟姉妹が心を痛めるなら、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。
ウイルスへの対応のことで、兄弟姉妹を傷つけてはなりません。
キリストはそのような人々のために死んでくださったのです。
ですから、あなたがた各自の善意の対応や意見、考え方が、そしりの種にならないようにしなさい。
神の国は、ウイルスへの対応の是非によるのではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
一人ひとりの対応は善意によるものですが、それで人を罪に誘う者には悪い物となります。
自分にできる対策はしっかりと講じ、そのうえほかの兄弟姉妹の魂と身体に配慮することが望ましい。
自分の良心に神と隣人へのやましさを感じない人は幸いです。
ウイルスを過度に恐れない、神への信頼が強い人は、警戒心や恐怖感の強い人の思いをも担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
おのおの、ふさわしい対策を講じて隣人に配慮しつつ、互いの安全ととりなしの祈りに努めるべきです。
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。
「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものなのです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、ウイルス流行もまた、神の憐れみにより終息する希望を持ち続けることができるのです。
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、
心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、癒し主である方をたたえさせてくださいますように。
(翻案おわり)
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いかがだっただろうか。
一部、「グサリ」と胸に刺さる言葉があったのではないだろうか。
私自身もこれを書きながら、パウロに自分の良心をグサグサ刺された気分になった。
正直、まったく気持ちのよいものではない。
神の前では、「自分は正義の味方です」という顔は、だれもできないことを思い知る。
しかし、神の言葉とは、まさしくそのような罪の自覚と清めをもたらすものではないか。
神はどのような人をも愛しながら、同時にどのような人の罪にも警告して正し、
どのような人をも導いておられることを、いささかでも感じとって頂ければ感謝である。