コロナウイルスと教会⑧ コロナウイルスも「恐れるな」?

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp

 


聖書的な決まり文句に、「恐れるな」がある。

 

この言葉が言われるパターンとしては、大別して二種類あるかと思われる。

 

第一は、「神の顕現への恐怖」に対して、「恐れるな」と言われる場合。

 

旧約で神の使いが人間にあらわれたり、羊飼いたちを神の栄光が照らしたり、といったときに語られる。

 

第二は、「人間や自然などの脅威」に対して、言われる場合。

 

多くの詩編の言葉や、アラム軍の戦車に包囲されたときにエリシャが語った言葉、ほかにもアッシリアに包囲されたとき、ヒゼキヤに神が語られた言葉など。

 

第一の例はさておき、第二の例について、「パンデミック」との関連で考察してみたい。

 

コロナウイルスが拡大しているなかで、「恐れるな」という言葉が神から語られている、としたら、どう感じるだろうか。

 

「いやいや、恐れるなとか無理でしょ。そんな戯言を言って、感染者増やすとか言語道断ですから」

 

「『正しく恐れる』ことが大事なのであって、恐れずにマスクもつけず、対策も取らないなどというバカなことをするっていうんですか?」

 

「あなたが恐れずに適当なことをすることで、かえって他の人に危害を及ぼす、ということがわからないのですか?」

 

当然、以上のような反応がありうると思われるし、ごく常識的・一般的世界観の範囲内ではまったくこれらは正しいと感じる。

 

ただ、現実を「常識」で考えるだけでは「市民」ではあっても「信仰者」とは言えないし、パンデミックをも「神の支配と摂理」のなかで見つめる信仰的視点は重要だろう。

 

現実は「多層的」なものであり、「一つの層(相)」については「一般常識」で認識できる。

 

だが、「別の層」については、他の専門的認識が必要になるし、「信仰」においてしか認識できない現実の「層」もまた存在する。

 

「信仰者」は、信仰においてしか認識できない「層」を理解することができるという点で、現実理解において恵まれた立場に置かれている。

 

「聖書」というフィルターを通して、現実の一断面を「神への信仰のまなざし」をもって見ることで、現実をたくましく生き抜き、乗り越えていく理解が培われるのだ。

 

「恐れるな」というのはあくまで「信仰的」な根拠に基づくものであり、「一般常識的現実層」を「否定」したり、「拒絶」したりするものではなく、むしろ「補完・回復・完成」するものだと言える。

 

パンデミックを「恐れるな」ということの意味は、

 

「ウイルスもまた神の支配下にある」ということであり、ウイルスは「肉体を殺しても、魂を殺すことはできない」ということであり、

 

「本当に恐れるべきはウイルスではなく、神に反逆する生き方を貫いて、ついには神無きものとなって滅びてしまう」ということなのだ。

 

「神以上にウイルスを恐れる」ということがもしあるとするなら、それは不信仰の重大な一形態であり、「神よりもウイルスの方により大きな実在性と命への権威を帰している」ことになるのではないか。

 

これらは、「ウイルスへの行動として、どういった形を取るのか」という課題以前の、「どういったモチベーションで取り組むのか」という問題だ。

 

神をウイルスに対してはまったく無力な「建前」や「キリスト教思想」として忘却し、ウイルスの脅威とその実在性に日々怯えながら行動するのか、

 

それとも神のもとでウイルスもまた支配されている存在であり、ただ神のみを畏れ、神のみにすべての権威を帰する在り方で行動するのか、の違いなのだ。

 

「恐れるな」の意味は、「恐れることはないのだから、ぼんやりしてなにもするな」の意味ではないことは自明のことだ。

 

「恐怖ではなく、神への信頼によって、自分にできる手段を活用し、課題に取り組め」の意味だ。

 

「取っている行動」を見れば、表面的には同じに見えるかもしれない。

 

マスクをし、手洗いやうがいをし、人ごみを避ける、高齢者や病弱な人々、弱い立場にある人々に配慮する・・・。

 

しかし、その「モチベーション」が「恐怖」ではなく、「神への信頼」であるなら、その行動には「希望と平安」が基調音となるだろう。

 

「義憤」、「恐怖」、「悲壮感」、「焦燥感」にかられた行動は、自他にとって有害な影響を及ぼす。

 

そういった行動は少なくとも他者に対して攻撃的なものになり、怒りや悲しみを拡散することで、他者を傷つけるもとになる。

 

他者を深く傷つけてしまっても「いまは非常時なのだから、自分のことだけで精一杯になるのは当然だ」と自分のしたことを正当化しやすい危うい心理状態にしてしまう。

 

そういった思いで生活するのは、自他を結果的にかえって強く精神的・健康的なリスクに押しやってしまうことにもなりかねない。

 

現実に戦争が起こると、銃で撃たれるなどして「戦死」する人以上に、「餓死」や「病死」、「衰弱死」など、「間接的」な理由で死んでしまう人の方が大勢いるのは、周知の事実だ。

 

ウイルスのパンデミックの時に、「ウイルスによってではなく、ウイルスの拡大によって生じた特定の状況によって、間接的に傷つけられ、亡くなってしまう」事例もまた、非常に多くなることが憂慮される。

 

それらの「間接的死」をもたらす最たるものが、「人間の増幅された恐怖」にかられた集団的な行動なのだ。

 

だからこそ、「恐れるな。神を信頼せよ」のモチベーションを養いながら、外面的には冷静かつ客観的な態度を維持し、自分に可能なすべての対策に取り組む必要がある。

 

いま、「少なくとも神以上にウイルスを恐れてはならない。神のこと以上にウイルスのことを重大視して、神を軽んじてはならない」と、私たちは言われているのではないか。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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