コロナウイルスと教会⑤ 「恐怖」も「信頼」も現実化する

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp



コロナウイルス騒動で、日常のなかでいろいろな黙想が刺激されるため、整理のためにブログに書きたくなる。

 

これも自分なりの気晴らしなので、関心のある方、お付き合いいただきたい。

 

主イエスの「あなたが信じたとおりになるように」という御言葉(マタイ8:13等)を、これまで何度も黙想してきたが、

 

今回、「やはりそうか」と思えることがあったので、シェアしたい。

 

「心の底からそうなると信じていると、一定のタイムラグや誤差はあるにせよ、やがてそれは実現に近づいていき、現実となる」

 

これは世界中の自己啓発書でよく言われていることだが、そのオリジナルは上記の主イエスの御言葉であり、

 

自己啓発書は主の御言葉を「神をのぞいた世俗バージョン」に変換したものだと自分は考えている。

 

なぜ「神への信仰」が求められるのかといえば、上の「法則」は神への信仰なしにも、人間学的法則として働くものだが、

 

神への信仰を度外視していると、場合によっては自分にも他者にも破壊的な作用をもたらすからではないだろうかか。

 

最近の実例をひとつ、考えてみよう。

 

政府の対応は功を奏しているとは思えず、WHOが「危険だ、心配だ」と叫んでいるときに、ネット上に「トイレットペーパーが品切れになっている」との「デマ」情報が拡散された。

 

すると、恐怖が伝染して、「買い溜めしておかなくては!」と皆が考えて、

 

スーパーなどに行き、現実に「トイレットペーパーは品切れです。数日後に入荷します」となった。

 

実際には在庫が潤沢にあるにせよ、身近な目に見えている現実では本当に短期間のうちに「品切れ」が実現したのだ。

 

皆が、「そうなる!」と信じたからとしかいいようがない。

 

恐怖が圧倒的な駆動力で人々を動員して、あっという間に恐れていたことが現実化してしまった。

 

このことは小さなことのようにも思えるが、個人的には印象深い出来事だった。

 

「恐怖」とは「自分の生存が脅かされている」ときの感情であり、防衛本能に火が付くと人間は「できるだけストックし、できるだけ省エネをし、できるだけ長く生き残ろう」とするスイッチがはいる。

 

これは大昔からの人間がサバイバルするために身に着けてきた防衛反応であって、悪いことであるどころか、生き残るためには必要な機能だったと言える。

 

しかし、このようなスイッチが入ると、人間は自己中心性をどこまでも増幅させ、それを正当化できるだけのあらゆる理由を手にすることができる。

 

そのため、「資源という限られたパイの奪い合い」や「自己中心性のダークサイド」があらゆる形で露骨に生じ、その結果「恐れているものを現実にしてしまう」ことが起こりうる。

 

「ウイルスに感染・拡大するんじゃないか」→「調子が悪いから、すぐに病院に行かなきゃ」→「院内感染した」

 

「ペーパーがない」→「買わなきゃ」→「店頭にない」

 

「自分も感染するんじゃないか」→「心配と不安で疲労し、免疫が落ちた」→「本当に感染した」

 

「こんなときに戦争でも起こったらどうしよう」→「戦争を怖がるあまり、他国を刺激」→「本当に戦争勃発」

 

以上は、単純すぎるものだが、「恐怖」というモチベーションに支配されると、人間は「自己中心性」をおおいに加速させてしまい、

 

その結果として自己中心性のダークサイドをどんどん発揮してしまい、その代償として「カウンター・パンチ」をおもいきり食らうようになるのだ。

 

それが本当の「恐怖」の残酷さだ。

 

人間から「人間らしさ」を奪い取り、理性をもって思考できない動物のような状態にしてしまう。

 

そこで、「自己中心性」を加速・増幅しないようなモチベーションで、ウイルスに向き合う必要があるのではないか。

 

それは「恐怖」ではなく、「信頼」ということだ。

 

これは単なる「楽観主義」を言うのではない。

 

将来への展望や、今後のシュミレーションの内容というよりは、取り組むうえでの「動機」の部分の話だ。

 

「神が共におられ、すべてを御支配くださっているのだから、その神が最善の形を備えてくださっているはずだ。そのことを信頼して、今自分にできる目の前のことをやろう」といった態度を言う。

 

現実については冷徹すぎるほどに、冷徹に見ていく必要があるだろう。

 

しかし、その動機の部分には、「この問題は必ず解決できるし、解決される」との信頼や希望がなければ、その働きは本当に効果的なものにはならない。

 

「信頼」の「恐怖」との相違は、「自己中心性」を増幅しないということだ。

 

「信頼」はむしろ、人間の心のキャパシティを押し広げ、「余裕」と「軽やかさ」をもたらす。

 

それにより、「合理性」や「秩序」にかなったよい意味での理性が発揮され、「より賢明な選択」「長期的視野のなかでの選択」をすることができるようになる。

 

結果、「本当にそうなると信頼していた通りの現実がやってくるし、実現できる」ことになる。

 

「恐怖」の方が、人間を駆動するには、短期的にはずっと効力があるかもしれない。

 

それはここ何週間かで十分に証明された。これ以上は、もう充分かと思われる。

 

「信頼」は長期的に、人間と社会を建て上げ、構築していくうえで、最も根源的かつ効果的な心理的リソースなのだ。

 

そこで最初の論に戻るのだが、「神への信頼」があることで、私たちは「あなたが信じたとおりになるように」との主イエスの御言葉を、

 

本当の意味で「建設的・生産的」な方向に実践することが可能になる、ということだ。

 

絶対的に信頼できる存在がいないならば、ただ「恐怖」が主調音になる以外にないだろう。

 

しかし愛と恵みに溢れた神がおられるなら、その神への信頼に基づいてより賢明で適切な歩みもまた、可能になるのではないだろうか。

 

「あなたが信じたとおりになるように、が本当に真理だとするなら、あなたはなにを信じるのですか」

 

「あなたは本当によりよい世界を信じて、取り組むのですか。それとも、本当は世界が崩壊することを信じて、歩んでいるのですか」

 

基本的課題だが、ぜひご参考にしてください。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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