コロナウイルスと教会⑥ 「未知」と「グレー」へのレジリエンスを育てる「信仰」

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp

 

インフルエンザで亡くなっている人々は、毎年アメリカだけでも1万人を超えているという。

 

自死をしてしまう人々の人数は、日本で3万人前後、世界で80万人前後という。

 

コロナウイルス流行との比較は、その内容も異なるため成り立たないと知りつつも、

 

「コロナ」以外のあらゆる理由で、世界では今日も人々は亡くなり続けている。

 

人が死ぬ理由は、「無数」といっていいくらいの数があるのは、今も変わっていない。

 

しかし、現在では「コロナウイルス」の話題が集中的にメディアで取り上げられ、多くの人の頭に浮かぶ内容の非常に多くが、

 

「コロナ」関連というワードで占められているという状況であろうと思う。

 

もちろん、この話題の重要性については、今否定する人はだれもいないのは当然だろうし、

 

これについて重大な課題ではないという人は、現実を軽んじていると受けとめられても仕方がないだろう。

 

ただ、気がかりなのは今もなお「コロナ」以外の理由で数知れない人々が亡くなり続けているが、

 

その人々は「コロナ」関連の圧倒的情報量によって「マイノリティ」としての位置しか占めることができなくなっているのではないかと危惧される。

 

いま、どこかの銀行に強盗が入って数人が殺されたとしても、どこかの国で乱射事件が起こっても、場合によってはなんらかのテロが起こっても、

 

「今はそれどころじゃない」という形で、「平常時」よりははるかにインパクトは小さくなるし、またその報道される情報量も「コロナ」によって少なくされてしまうだろう。

 

さらに、「人々の意識」にそういった事件が残る割合も、平常時よりはずっと小さくなってしまうに違いない。

 

私たちの意識や認識は、現代の過激な映画やアニメ、思想の影響を受けて、「ゼロか、100か」の極端なものに陥りがちだ。

 

「白か、黒か」、「正しいか、間違いか」「善か、悪か」の「二分法」ですべてを認識してしまうことが多い。

 

つまり、「0から100」までのグラデーションの多様さが極めて乏しいものとなっている。

 

これは精神的には脱ぎ捨てていくべき未熟さのサインなのだが、今ではこういった精神性の方がわかりやすいため、これを助長するようなメディアやストーリーもあふれている。

 

同時に、「ググれば大抵のことはわかる」といった、現代のネット社会の特性として、「わからないこと」があると、非常にストレスがたまるという精神性になりやすい。

 

その「わからないことが、分からないままの時期が長引くほど、そのストレスは加速度的に増加していく」ということがあるのではないか。

 

こういった状況で「コロナが激ヤバでパンデミックでみんな大混乱で多くの国々で感染者は増え続けていて、自分の身近にも感染者が・・・」と言われると、

 

意識をその主題が占める割合が「コロナ0」から「コロナ100」に一気に振り切ってしまい、

 

「コロナ関連以外の重要な主題や課題についても、平常時と同様に取り組むことができる」という理性や力、心理的キャパシティを失いやすくなっている。

 

「コロナ以外の課題」においても、一人ひとりが苦しみ続けていることを、忘れがちになってしまう。

 

しかも「コロナとはなんなのか、どうすればいいのか、いつこれが終わるのか・・・」といった無数の「わからないことが、わからないままいつまでとも知らずに続く」状況にいま、置かれている。

 

これは、私たちの時代においては、容易に精神的なキャパシティをオーバーしてしまうような、非常に厳しい状況であることを示している。

 

私たちは情報を取捨選択しながら、ネットにアクセスすれば大抵のことがわかってしまう時代に生きているからこそ、

 

いまの「わからないことが多い」、また「右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、判断が難しい」、「いつまで続くかもよくわからない」状況にストレスを蓄積して、

 

怒りを爆発させることを自分に許可しやすくなり、人を傷つけても良心が痛まないような状態になってきているのではないか。

 

「未知なもの」や「グレーなもの(曖昧なもの)」へのレジリエンス(耐性)を持たない人は、今はよりストレスフルな状態になりやすくなっている。

 

かといって、「ただこの状況を耐えればいい」という問題ではないことは明白だ。

 

単純に思考停止に陥って耐えているだけでは、状況の改善は見込めない。

 

こういった耐性を、改めて身に着けていく必要がある。

 

ひるがえって、「神への信仰」とは、まさにこういった耐性を育てるものだ、と思わせられる。

 

そもそも、「三位一体」というお方ご自身が、「人間には未知なお方」であると同時に、私たちのすべてを導かれているやり方においても、曖昧さから完全に解放はなさらない。

 

それは、「わからないときもなお、神への信頼によって歩む」ことをお教えになりたいためだ。

 

「神の愛が見えなくても、神の愛を信頼する」

 

「出口や解決がわからなくても、なお神が備えておられることに希望を置く」

 

「自分にはわからないことも、神にはわかっておられるから、その神に委ねて生きる」

 

こういった態度は、聖書の示す最も基本的な生きる姿勢であるわけだが、これこそがまさに「未知」や「グレー」への耐性そのものであると感じる。

 

「コロナ」がいつ終わるのか、そもそもなんであるのか、発生源はどこなのか、どう治療されるのか、そういったことが「わからない」状況を、灰色な曖昧さを抱えたまま耐えていくのは、

 

「目に見える現実において生じる困難や矛盾など、すべてを貫いて神が道を備え、扉を開いてくださる」ことへの信頼なくしては、非常に困難と言えるだろう。

 

このときに、改めて信仰の原点に立ち戻り、「現実を超越し、すべてを統治しておられる、見えない神の備えと導きを信頼する」ことを思い起こし、身に着けたいと願う。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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