キリスト教社会倫理② 「解放の神学」の是非

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME



カトリック教会とラテン・アメリカのコンテクストのなかから、『解放の神学』と言われるものが出てきた。


 『解放の神学』(グスタボ・グティエレス著)

 

上記の書物は1972年に出版されている。日本語訳は2000年だ。

 

神学生時代に一度読んだが、非常に読みにくく、主張がよくわからなかった。

 

今回、改めて読んでみて、この本を批判的に考える機会となったので、ブログの記事としてみたい。

 

まずここでの「解放」とは、特に「政治的解放」、「歴史的解放」、「神学的解放」の三つでとらえられている。

 

「政治的解放」とは、抑圧的で貧困や隷従を強いるような権力者がもたらすひどいシステムを変革することによる解放だ。

 

「歴史的解放」とは、歴史が前進するなかで、人間が自分の運命を引き受けるものとして自由を得ていくという意味での解放だ。これはヘーゲル的な歴史観が背後にある。

 

「神学的解放」とは、聖書が言うような「罪からの解放」であり、人間が新たにされることだ。

 

この書物は、教会が「神学的解放」ばかりを主張して、「政治的・歴史的解放」を語らず、これに参加しないことで、かえって「体制側」「権力側」「抑圧者側」に協力し、これを支えるために利用されてきた、ということを繰り返し批判している。

 

そのときに、批判が向けられるのは「領域区別の思考」についてだ。

 

私がこの本を改めて読もうと思ったのは、この部分へのまとまった批判が書かれていたからだ。

 

というのも、私は自分の著書でも、自分の神学的立場でも、基本的に「領域主権」(アブラハム・カイパー)のコンセプトを受け入れており、これに基づいて自分の神学的な立ち位置を形成している。

 

そこで、こういった立場にまったく立っていない神学者の意見に関心があったため、読ませていただいた。

 

「領域区別思考」とは、「教会」と「この世」の原理原則や在り方を基本的に領域として区別する、ということを前提とした考え方だ。

 

つまり、教会の在り方や方法論をそのままこの世には適用できないし、その逆もまた不可能である、という立場を言う。

 

両者をはっきり区別したうえで、互いに自らの「独自性」や「本質」を守りながら、相補的にか、対立的にかは時代によるが、社会を形成していこうとするものだ。

 

この考え方全般を『解放の神学』の著者は、主たる攻撃対象としている。

 

おそらく、グティエレスの「領域区別思考」への批判点としては、以下の四点がある(おそらく、というのは私には理解がよくできない部分が多かったからだ)。

 

1:司祭と信徒を区別することで、信徒はより強い社会変革へのコミットを求めているのに、信徒の働きを弱めることになる。

 

2:教会そのものが権力と癒着しており、体制と権力の現状維持に利用されている。

 

3:時代の変化により、この世はまったく世俗化して自律的となり、信仰そのものが通用しなくなっている。

 

4:「自然と超自然」などの「二項対立」的神学ではなく、「唯一の救いに対して、自然も超自然も向かっている」というような「統合的」神学が要請されており、「二項対立」は時代遅れである。

 

大体、以上の批判と受け止めた。

 

私自身には、この書物は少なくとも日本のコンテクストにはまったくそぐわないばかりか、教会の働きを更に弱体化するものとして映るため、以下素朴に考えたこの書物への疑問点や批判点を描いてみたい。

 

もちろん、以下に書くことは、「この書物は日本という文脈では難しい」ということであって、「まったく別の文脈ではこの批判は当てはまらない」ことも十分ありうる。

 

また、これはカトリックの立場で書かれており、プロテスタントの牧師が批判すると文脈が異なってしまうため、見当はずれなものになってしまうところもあるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。

 

1:牧師と信徒は「職務」において本質的に区別されるもので、これが混同されるなら教会は本来の職務を果たせず、衰退してしまう。


牧師が御言葉の説教と牧会に励み、信徒が職業生活や社会の改善に取り組むという職務的「区別」を消すなら、ただ教会的混乱が起こるだけだ。

 

2:この書物は「二項対立」を批判しておりながら、「体制と反体制」、「抑圧者と被抑圧者」、「富裕と貧困」などという、別のタイプの「二項対立」概念を導入しており、「統合的神学への志向の主張」という点との関連において、完全な自己矛盾をきたしているのに、そのことに自覚的ではない。

 

3:この世の世俗化の流れに教会や信仰の在り方を合わせるなら、それは「教会の世俗化」であって、「塩が塩気を失う」ことになり、「教会のこの世への解消」を最終的には帰結する。

 

4:「統合的神学」はおおいに結構だが、それは「自然と超自然」などの「二項」について、はっきりとした「区別」をふまえたうえでないならば、「統合」は容易に「溶解」となり、単なるシンクレティズム(混交主義)となる。


そして、この書物はまさに「区別」をネガティブなものとして抹消していこうとする傾向があるため、理論的には「統合」を語りながら、実践的には「混交・溶解」となる危険性が非常に大きい。

 

私は、この書物が「領域区別思考」の批判として、急所をついているようにはまったく思えないばかりか、かえって教会が今後実際的に建っていくためには、このような領域的な思考法は必須であることを、改めて自覚させられた。

 

もう一つ、この書物に対する根本的な疑問がある。

 

ラテン・アメリカの「体制」や「現状」の政治的システムに対する不満や怒りなどが背景にあるのはよく理解できるし、そのひどさというものを、私は経験的に知っているわけではない。

 

もちろん、抑圧や差別、貧困などを放置し、さらに悪化させるシステムを改善・変革しようとするのは、キリスト者すべてが願うところだろうし、これがかなうなら非常に望ましいことだ。

 

ただ、「体制を変革すれば、社会は改善される」というのは、革命を志向する人々が必ず語ることだが、それが実際にそうであるかどうかは、わからないということだ。

 

「革命」が起こって体制がひっくり返るとき、多くの血が流されることが多い。

 

そして、「新体制」が敷かれると、かえってより高圧的・抑圧的で残虐な支配がなされる、という歴史的事例は多数ある。

 

それまで人類愛や理想を語っていた革命家が、粛清や虐殺を良心の呵責もなく行うことも十分ありうる。

 

「それのどこに人類愛があるのですか」と問いかけても、「これがどうしても平和のためには必要なのだ」と、体制を取った革命家は答えるだろう。

 

なにが言いたいのかというと、「政治的解放」や「歴史的解放」といったものは、それが「誰にとって、どのように、どんな意味で解放なのか」ということを問いかけると、非常に曖昧で多義的なものとなってしまう、ということだ。


ただ「終末の神の審判」においてしか「本当のところはどうだったのか」はわからないことは、認めざるをえない。

 

たとえばフランス革命をなした人々には、そこでなされたのは「解放」であっても、そこで殺された人々には「恐ろしい抑圧と恐怖政治」以外のなにものでもないだろう。

 

「それを本当に『解放』と定義できるのは、だれなのか」を考えると、歴史的には非常に主観的であいまいなものとなってしまう。

 

そして、どのような者も、それがひどく道徳的かつ理想主義的な革命家であろうと、原罪と自己中心性から免れている人間はいない。


私たちは、歴史的地平やこの地上的生活においては、「絶対的にこれが解放であり、正義なのだ」と主張できることは、実はそれほど多くないのではないか。

 

だからこそ、「真理」ということにおいては「キリストのみが解放であり、人間の本当の問題は罪なのだ」ということを、語る以外にないのではないか。

 

そこから違う次元のことは、聖書からすると「解釈」や「推測」の域を、決して出ることができないからだ。

 

ほとんど批判だけに終始してしまったが、関心のある方は、ぜひお読みいただきたい。神学的に「政治」や「歴史」を考えるとき、どういうポイントがあるかということを、いろいろな意味でよく学べるものだと思う。

 

最後に改めて書いておきたいのは、こういった批判を覚えるのは私が日本というコンテクストに置かれているからで、もし私がラテン・アメリカで司祭をしていたら、解放の神学についてまったく別の評価になるだろうし、上記の批判とほとんど正反対のことを考える可能性もあることは、はっきり付言しておきたい。

 

あくまで、神学は「コンテクスト」のなかで営まれるもので、これを別のコンテクストで思考すること自体に、大きな限界があるのだ。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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