『公共神学と経済』(M.L.スタックハウス著)という書物を読んだ。
私にはあまりなじみのない思考法や概念が出てくるので理解しにくかったところと、これまでよく考えることができていなかった部分を、クリアにしてくれるところがあり、いろいろな意味で刺激的だった。
「公共神学」という用語には、いくつかの意味があるようだが、本書では「国家と個人の間に、公共的な領域を生み出し、考察する神学」ということのようだ。
章のタイトルが非常に象徴的で、その事情を語っている。
「経済体制のデモクラシー化」
「エキュメニズムと経済」
「敬虔と権力」
「霊性と会社」
「サクラメントとテクノロジー」
「多元化とスチュワードシップの将来」
私なりに解釈すると、スタックハウスが語る「公共神学」とはカルビニズムが言うところの「一般恩恵」と、「現実的・社会的課題」との対話・弁証・分析によって形成される神学だ。
つまり、キリスト教神学のコンセプトを応用し、解釈を広げていくことで、「経済」「会社」「テクノロジー」「国家」・・・といった社会的課題においても、聖書や神学の概念がなんらかの妥当性、有効性を持つことを描き、教会の外部に対して「証し」をする、ということだろう。
たとえばだが、上のタイトルにあるように、「サクラメント論」の理解を展開しながら、そこに含まれているロジックを応用することで「テクノロジー」の将来への方向性や可能性について、神を信じていない人々にも非常に納得性のある議論ができるなら、それによって聖書の真理性を証しすることができる。
「敬虔」であることが、どのように「権力」と関わりを持つか、そこにどんなダイナミクスが働き、権力にどう向き合うのか、といったことの意味や有効性が明らかになれば、「敬虔であること」はこの世の権力と向き合ううえで意味がある、という証しになる。
「会社(コーポレーション)」といったものを、どう神学的に受けとめ、評価するのか、また「霊性」が「会社」に対してどんな影響や関連があるのか、といった議論もまた、同様だ。
以上のような「公共神学」の考え方について、私は賛同するし、このような考え方や思考法は、教会の神学的世界を豊穣にするものだと思う。
本書は、「神学的概念とこの世的概念」の関連について、単純な「一元論」でも両者を分けるだけの「二元論」でもない、「両者の区別を前提にしたうえでの弁証や対話、橋渡しと連携等の可能性」について本質的側面から論じているという点で、従来の偏った立場を是正し、議論を新たに進めるものとして、大変刺激的である。
ひとつの可能性として感じるのは、これを「信徒の神学」という形で、多面的に展開できれば、非常に多くの人々の助けになる、ということだ。
教会に来ている信徒は神を信じるばかりか、なんらかの分野の専門家だが、自らの専門分野に霊的な導きや方向性を見つけたいと願っているだろう。
「公共神学」が、たとえば福祉の実践家に「福祉の神学的理解と方向性」、心理療法士に「心理の神学的理解と方向性」、ビジネスマンに「ビジネスの神学的理解と方向性」などを提示することができれば、教会に集う信徒が今後のビジョンを描くうえで、おおいに助けになるだろうし、教会も活気づくだろう。
たとえば信徒によって担われる「キリスト者心理療法士の集い」といった集いをもったときにも、「公共神学」が蓄積した理解から汲みだすことができれば、参考になるところが多いだろう。
そういった集いにノン・クリスチャンが参加したときも、「なるほど、キリスト教はこういった理解をしており、確かに納得できるところがある」と思われるなら、よい証しにもなるにちがいない。
また、信徒が職場や地域で生活し、働くときに、だれかと信仰や専門分野について議論しなくてはならない状況に立った時も、こういった神学は信徒を背後からおおいにサポートをしてくれるだろう。
以上のような「信徒の実践神学」といった可能性が含まれているという点で、「公共神学」のコンセプトは私は好ましいと思った。
同時に、疑問点もある。
本書を読んでいるとき、終始頭に浮かんだのは、パウル・ティリッヒの姿だ。
ティリッヒは、教会には若いころから、行くことはまったくなかったが、学者が集うサロン的な集いで講演することを大変喜んだという。
ティリッヒの神学は、文化や心理学、芸術と神学の関係性を追求したという点で、「公共神学」を先取りしていたと言える。
「公共神学」を営むためには、実際的には大変な知性が要求されるだろう。
つまり、ただ神学がしっかりとわかっているばかりか、他の分野も一般的水準以上には学ばなくては論じることなど、できはしない。
そういうことが実践的にできるのは、学問にひたすら没頭できるような相当なインテリ以外にはない。
つまりティリッヒのような複数分野を研究できるような「学者」か、それに準じるような働きをしている人しか、「公共神学」などできたものではない、ということだ。
牧師がこういった神学ができればいいのかもしれないが、現実的には可能なのは少数だろうし、神学教師のなかでもこういった領域に取り組むことができる人は非常に限られている。
「公共神学」のコンセプトは豊かなもので、可能性もおおいにあるが、しかし実際的にはこれに従事できる人は、ごくわずかしかいないのではないか、ということだ。
本書の著者のスタックハウスという人も、非常に広範な知識を持っているのがよくわかるが、そんな知識を蓄積するだけで大変なことだ。
つまり、この神学の「主体となるのは、だれなのか」ということだ。
その部分に、かなりの実践的難点がある。
おそらく、「礼拝に出席して説教を聞いて信仰を深めており、自らの専門分野をもまた情熱をもって追求している信徒」が、ふさわしい主体となることができるだろうが、しかし少数ではあるだろう。
このような領域についての研究や展開は、確かに必要であるし、豊かな可能性が眠っていると思われるので、「志」がある人が担っていくことができればすばらしいが、そういう人がどんどん起こされるよう、祈っていきましょう、ということだろう。