キリスト教社会倫理① 「非暴力的抵抗」の是非

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME



『イエスと非暴力 第三の道』(ウォルター・ウィンク著)という著書を読んだ。

 

ごく部分的に有益な学びがあったが、正直大半の議論に共感できず、疑問と批判が渦巻いたし、こういったアプローチについてより疑いを深める結果となった。

 

この書は私の印象では、メノナイトの神学者ヨーダーの議論を踏襲しつつ、より実践的な方面を探求したものである。

 

主イエスのお教えになった倫理を、そのまま教会ばかりか社会への規範とする「一元論」を展開する点では、ヨーダーを受け継いでいる。

 

ある意味では、神への信仰がない人々にも、「非暴力」という権力への抵抗手段が有効であることを証ししようとしているように読める。

 

「第三の道」という副題があるが、これは「絶対的平和主義(すべての暴力と戦争の否定)」と、「相対的平和主義(限定的・部分的・条件付きの形で暴力と戦争を肯定)」の間の道を探ろうとしているものだ。

 

その内実は、「主イエスの教えに基づき、状況やコンテクスト、権力の形態に即して創造的にユーモアをもって、非暴力の方法論を生み出す」ということだ。

 

つまり、「絶対平和主義」や「相対平和主義」などの、類型や枠組みに満足せずに、その間にある非暴力の道をその都度発見し、作っていくことが重要で、型通りの権力への対応をすることを退ける、という特徴をもつ。

 

リチャード・ニーバーが語った『状況倫理』や『啓示の意味』のロジックを、「非暴力」の文脈で展開したものと言えるかもしれない。

 

そのときどきの抑圧者や圧政に対して、有効なやり方を生んでいく際の条件やプロセス、超えてはいけない部分などについて、論じていくものだ。

 

ある国家や地域で、人間性のすさまじい抑圧や人権侵害の慢性的状況があるとき、「非暴力」という方法論でそれに抵抗するというのは、私自身は一つの選択肢であると思うし、そういった方法論自体を否定するつもりはない。

 

キング牧師も、ガンディーも、また他の平和活動家も、非暴力的抵抗によって権利を獲得してきた歴史を軽んじたり、否定しようなどというつもりは毛頭ないし、仮に日本で人権抑圧のひどい状況が生じたら、自分自身もこういった方法論を真剣に検討するだろうとは思う。

 

ただ、こういった課題を論じるときの「神学的背景」や「思考のための用語」の使用法自体に、受容することができない部分が非常に多くあり、私はこういった議論や提案それ自体に、疑いや批判の心をもたずにはいられない。

 

疑問1:「抑圧者」と「被抑圧者」の図式について

 

まずはここが根本的に疑問だ。


「抑圧者」とは、だれのことか? 企業の社長や、独裁者など、特に政府を運営する権力者が想定されているのはよくわかるが、そういった人々を「抑圧者」と定義すること自体がおおいなる疑問だ。

 

というのも、そういった立場にある人々は、もちろん間違いも侵すし悪も行うが、同時に善も行い、秩序を守ろうとする。


そして、そういった人々自身もまた、他の領域においては容易に「被抑圧者」となる。

 

重圧とストレスを背負って闘っているリーダーは、常に自らの心や厳しい状況、周囲の人々の声から「抑圧」されているし、より大きな力をもっている組織の圧力や競争、攻撃に「抑圧」されている。

 

政府の運営者といえども、変化する世界情勢のなかで、より強大な力をもつ国の間でどう国家を守っていくかを考えると、より強い国に「抑圧」されているように思うだろう。

 

「抑圧者と被抑圧者」というのは、ある状況で、ある基準を適用して成り立つものだが、こうった部分が変動すると、容易に立場は入れ替わる。

 

場合によっては、容易に「被抑圧者」もまた「抑圧者」になることは、歴史的事実が証明している。


革命が起こったとき、それまでの不満と鬱憤によって立場が逆転して、すさまじいばかりの復讐や惨劇が起こるのは、どこの国でもありえることだ。

 

「権力があるか、ないか」というのも相対的な問題に過ぎず、その権力の「性格」や「種類」も当然ひとつではないこともまた、問われうることだ。

 

疑問2:「非暴力」の責任的な主張の可能性の乏しさ

 

「非暴力」を主張するとき、それを他者に勧めているということの重大さを、よくわかっているかどうか、非常に疑問だ。

 

たとえば、ある青年が教会にきて、そこで「非暴力的抵抗」を教えられたとする。

 

その青年が実際にそういった活動を行った結果、権力のリアクションによってその青年が重傷を負ったり、死亡してしまったら、教会はその青年の遺族になにを語ることができるのか。

 

遺族から「教会から教えられたことを行ったことで、うちの息子は事実死んだ」と告発されたとき、「非暴力」を主張していた人は、なんと応答するのだろうか。

 

「それは自己責任です。その人の決断ですから」などと、言えるのだろうか。

 

この著書は、いくつかの箇所で「殉教は避けることができない」(たとえば95P「イエスの第三の道は、まさに迫害や死を避けることができないのです」)というような主旨のことを書いているが、これはある意味恐ろしい文章だと思うし、こういうことを非暴力のコンテクストで語ってはならないと、牧師の良心に照らして深く感じる。

 

というのも、ここで言われているのは聖書が語る「自我の死」や「古い自分の死」ではなく、「事実上の肉体的死」だからだ。

 

こういうことは、自分の良心に照らし、自分自身に対して、ある限界状況での決断としてはありえても、他者に対しては、決して責任的に言うことができる性格のものではないと、私はごく常識的に考える。

 

実際、そういった言辞をだれかが「神の言葉」と信じ込んで、あってはならないことが起こった場合、教会は責任をどう取ることができるのだろうか。

 

「神を信頼して非暴力活動をすれば、そういうことは起こらない」という論法は、まったく間違っている。

 

というのも事実、非暴力活動によって重傷を負ったり、死に至った人もまた、歴史的に大勢いるからだ。

 

こういった犠牲を払うことを、牧師や教会は決して「主張」はできない。

 

各人の決断と責任において、限界状況と神と自分との関係の深淵で、自ら選び取ることだけが、可能なのだ。

 

だれもそれを、教えたり、他者に主張したりはできないはずだ。

 

仮にそういうことを言う人がいて、それを教えている人自身が、まだ殉教してはいないし、そういう限界状況にも置かれておらず、「安全圏」からこういう理論を展開しているとするなら、教師としての人間的誠実さの点についても、私自身は疑問を抱く。

 

疑問3:出てくる例が「成功事例」ばかりであること

 

「非暴力」の選択肢をしたときの、「成功事例」ばかりがこの著書に掲載されていること自体に、客観性や合理性が認められず、資料的な不信感を私は抱く。

 

「非暴力」的抵抗をしたとき、「実際の歴史的事実においては、成功ばかりか、失敗事例において、どんなことが起こっていたのか」ということが、まったく言われておらず、検証もされず、紹介さえされていない。

 

これでは、現実的な非暴力的抵抗の「妥当性」さえ分析できないし、またこの著書は極論をいえば、「非暴力の宣伝」であり、「アピール」でしかない、ということにもなるように思う。

 

それで「効果的」と言われても、まったく納得できないばかりか、「よいことづくめの商品」の宣伝のようで、非常に怪しげであるとさえ思う。

 

 疑問4:「非暴力」は律法である

 

本書は「非暴力」を「賜物」として描いている部分があるが、それは最後の方のほんの一部だけで、実際的には描いているのは9割方、非暴力的抵抗は「こうするとよい」もしくは「こうするべきだ」という「律法」か「プログラム」である、ということだ。

 

これは、福音を求めて教会にくる会衆に語る言葉ではないし、キリスト教に好意や関心をもつ社会の成員に対しても、少なくとも救いや喜びをもたらすものではない。

 

さらに、これが「キリスト教社会倫理」の「スタンダード」であるかのような言い方全般が、ひどい誤解を生みかねない。私はこれはキリスト教社会倫理の大変な「亜流」であると考えている。

 

批判点を4つ挙げたが、もっと詳細に見るといくらでも他の批判ポイントが出てくるが、おそらく私はこれを読み返さないだろう。

 

ただ、ひとつよいところは、こういった考え方に触れることで、自分自身が「どんな立場にたっているのか」を検討し、自覚し、深めるために役立つものであり、そういう意味ではヨーダーの「絶対平和主義」が「問いかけ」と「夢」を語ることで暴力を理論的に相対化しているのと、似たような機能を果たすものであるとして、受けとめた。


 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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