キリスト教社会倫理④ 「隣人愛に基づく人間関係」

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME


教会の学び会でのレジュメをシェアさせて頂く。ご参考にして頂きたい。

 

・・・・・・・・・・転載以下

 

1 神の愛に基づく隣人愛

 

・隣人愛は、「神の愛への応答」。

神の愛を受けることによって、隣人愛は成立する(神に対して受動的になることで、人に対して能動的になる)。

 

礼拝、聖書、祈祷を通して神の愛を受け取ることなくして、隣人愛は存在しない。

 

「神は、わたしを愛しておられる。同時に、神はわたしの隣人も愛しておられる。

 

だから、この神の愛に応えて、わたしが神を愛するとき、神が愛しておられるわたしの隣人をも愛する」

 例:マザー・テレサの「死を待つ人の家」、社会活動

 

・隣人愛は、「神の赦しが前提」。

 

わたしが隣人を愛することができないことは、神はすでに織り込み済み。

 

わたしに隣人を愛する力があるなら、キリストは地上に来る必要はなかった。隣人をまったく愛せない自分が、キリストによってすでにすべての罪を赦されている。

 

この神の赦しの基盤のうえに、隣人愛が成り立つ。

 

「隣人を愛せない罪と失敗のすべてが赦されているから、少しばかりでも神の赦しに応えて隣人を愛するように努めていこう」

 

 例:ルターの言葉「大胆に罪を犯しなさい。しかし、なお一層強く神を信じなさい」

 

・隣人愛は、「神の清めが必要」。

 

 私たちは隣人を愛せない罪人だが、キリストを信じて礼拝者として神によって新たに誕生した。

 

私たちのうちでキリストは日々働き、罪を清めておられる。私たちの隣人愛も、赦しを基盤として清められていく必要がある。

 

試行錯誤を繰り返しながら、日々罪を悔い改め、愛のない自分をキリストに明け渡し、罪と義の間で葛藤しながら生きていく。

 

このプロセスはキリストによる訓練であり、罪が清められ、天の国に入るにふさわしく信仰者へと徐々に造り上げられる。

 

 例:ローマ7:7-25

 

 

2 隣人愛とはなにか

 

・隣人愛とは、「隣人の存在を肯定すること」。

 

 十戒の後半部分。隣人愛とは、隣人の生命・結婚・財産・名誉等を肯定し、これを増進すること。そのために、自らに与えられている資源(祈り・時間・労力・知識・賜物・お金等)を活用していくこと。

 

隣人が自分自身や隣人を誤って否定している場合(罪を犯しているなど)は、隣人の考えや歩んでいる道を否定することによって、結果として肯定することをも含んでいる。物事の本質を見抜く洞察力が求められる。

 

 例:善いサマリア人のたとえ(ルカ10:25-37)

 例:神殿から商人を追い出す主イエス(マタイ21:12-17他)

 

・隣人愛とは、「隣人を神の元へと導くこと」

 

 隣人の存在を肯定する最高のものとは、主イエス・キリストである。キリストのもとへ隣人を導くことが、隣人愛の最高の行為。

 

わたしが隣人の前から消え去っても、キリストは隣人を愛し続けてくださる。伝道は、隣人の最大の幸いを願い求めて行う隣人愛の行為。

 

 例:みんなで中風の人を主イエスのもとへ運ぶ(マタイ9:1-8)

 

3 隣人愛に基づく人間関係

 

・思い、言葉、行いによる隣人愛

 とりなし祈る、善意を抱く、善き計らいをする、

 挨拶する、認める、ほめる、叱る、楽しく会話する、励ます、

 求められている以上の水準で仕事に取り組む、プレゼントする、食事をする、相談に乗る・・・

 

 

・隣人との関係に困難がある場合は以下の対応がありうる。

 

1 「身から出た錆」ではないか、自分を疑う

 

隣人との関係が悪いのは、「相手に問題と責任がある」と考える以前に、まず自分自身になんらかの課題があるのではないか、と疑う必要がある(マタイ7:1-6「人を裁くな。自分が裁かれないために」)。

 

私たちは隣人の課題はよく見えるが、自分自身の課題については見えていないことが圧倒的に多い。

 

隣人との関係が悪いのは、自分が相手に対して神の御心に反することをしているからではないか、じっくりと祈り、顧みて、自分の課題を発見したならそれを改善していくことが必要。これが隣人関係をよりよくする最大の前提。

 

2 隣人が依存的である

 

隣人がこちらに依存して寄りかかってくる場合、それに応えるとエスカレートしてしまい、隣人を本当には肯定することにならないことがある。関係を切らずに依存をうまくかわしながら、相手に対して、自分自身で立たない限り問題はなにも解決しないことを伝えていく。

 

3 隣人が攻撃的である

 

隣人が攻撃的なときは、耐えることが求められるときもあるが、同時に攻撃をやめさせる必要もある。攻撃をやめさせるには、技術が必要。

 

①あえて相手に親切にする。相手は気持ち悪くなって、攻撃をやめざるをえなくなる。

 

②「戦略的・瞬発的な怒り」を実行する。相手に攻撃をやめさせるための方便として、瞬発的に怒りを発して威嚇すること。相手はドキッとして、「これ以上攻撃すると、もっと怒り出して反撃される可能性がある」と恐れて、攻撃できなくなる。

 

4 隣人が罪を犯している

 

隣人が明らかに神の道に反する罪を犯しているときは、罪の自覚をうながす。

 

そもそも、罪を犯しているという意識がないことがほとんどなので、「わたしの考えでは、あなたのしていることは正しいことではないと思う」という形で、自分自身の認識を相手にフィードバックする。

 

「あなたは罪を犯している」と真正面から断言することは、有効な時とそうでない時がある。

 

5 隣人に自分の問題を投影していないか、自分自身を疑う

 

「どうしても合わない人」がいる。そういう特別心にひっかかる人がいるなら、わたしがその人が嫌いなのは、その人に自分自身の問題を投影しているからかもしれない。

 

怒りっぽい自分が嫌いな人は、すぐ怒り出す隣人に我慢ならない。自己顕示するのを我慢している人は、堂々と自己顕示する人をものすごく嫌いになる。人に甘えたくても甘えられない人は、すぐ甘えられる人が大嫌いになる。

 

自分自身の問題を、隣人に投影して、隣人を嫌ってしまっている。

 

「特別心に引っかかる、嫌な人」に出会ったら、「なぜ、わたしはこの人がこんなにも嫌いなのか」をじっくり考えてみると意外な発見があったりする。

 

意外にも、わたしが嫌いだったのはその人ではなく、その人が備えている、自分自身の嫌な性格の一面だったりする。

 

6 隣人がうまく距離をとれない

 

人との距離をうまく取ることができない人がいる。距離が近くなりすぎると、大抵の場合問題が起こって関係は悪くなる。

 

「ことさらに近づいて来る人からは遠ざかり、ことさらに遠ざかる人には近づく」ことが原則。

 

冷たさと温かさを時に応じて使い分ける技術が求められる。

 

7 隣人をどうしても赦せない

 

 隣人から傷つけられ、怒りと憎しみに身を焼かれている時は、実感がなくてもいいので、神への祈りのなかで「主の御名によってあの人を赦します」とまず祈ってしまう。

 

すると、その告白に伴って、赦しの心がキリストによって与えられる。

 

 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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