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カール・バルト 「神学的公理」

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


カール・バルトは、「神学的公理としての第一戒」という論文を書いている。

 

牧師として奉仕し始めてからしばらくして、これを読んだ。


新鮮な衝撃を受けた。バルトはこの論文において、「ただ神のみを神とせよ」の十戒の第一戒を論じつつ、神学の主題とはただ啓示の神のみである、ということを大胆に論じている。

 

バルトは、牧会の最初の方は「宗教社会主義」という、マルクス主義的な思想とキリスト教の福音とを、うまく調停しつつ統合していこうとするような思想の傾向を持っていた。

 

当時のバルトの書いたものを見ると、後期のバルトからすれば考えられない主張を次々にしている。

 

つまり、「福音と社会」、「イエスと労働運動」、「キリスト教と歴史」といったような、「~と~」という神学的思考法をしているのだ。


福音、イエス・キリストは社会や歴史といったものに役立つということにおいてだけ、意味がある、というような主張だ。

 

福音の次元とこの世の次元が、微妙に交錯し、混交するような、そういう傾向があった。


つまり、福音という異次元のものを、国家や社会に適応させようとすることで、福音を変質させて語る、ということがあった。

 

そのときのバルトの動機は理解できる。彼は労働者の味方に立ち、労働者に共感・同情し、彼等のために戦おうとしたのだ。


そうした意味においては人間として実に立派と言える。

 

ただ、「牧師としてはどうか」という点を考えると、彼が当時語っていた福音は、そうした社会的状況に「妥協に次ぐ妥協」をしていくものだった。


だから、「神からの異質な力」という超越的な次元に欠けていた。

 

しかし、バルトはやがて第一次世界大戦を経験するなかで、自分を教えてくれた大学の先生が、皆この戦争に賛成する姿を見ることになる。


こうした「~と~」という神学的思考法では、現実が重くのしかかって来るときに、どうしても「妥協」していかざるをえない、と考えた。

 

そこで、まったく新しい思いで聖書を読み始め、聖書のうちに社会や歴史のうちには溶解してしまわないような、根源的な「異次元の世界」を見出した。


これを契機に書かれたのが『ローマ書講解』だ。

 

バルトはさらにここから足を進めて思考を進め、「~と~」の思考法から、「キリストのみ」、「聖書のみ」、「恵みのみ」、「神の栄光のみ」の神学へと突き進んだ。


その原点を描いているのが、「神学的公理としての第一戒」の論文だ。

 

ここでは、神学の第一主題とは、神の恵みの世界を追求していくことであって、「歴史」や「社会」や「人間像」・・・といったこの世の次元の主題は、それに付随するものなのだ、としている。


つまり、神の啓示の恵みがまず先にあって、その光に照らし出されるように、社会や歴史の課題が取り上げられる、ということだ。はっきりとした順序があるのだ。

 

「啓示」と「社会・歴史・人間学・・・」といったものは、「並列・同置」の関係ではなく、「啓示から社会・歴史・人間へ」という、そういう構造・流れなのだ、とした。


カール・バルト 神学方法論としてのキリスト論的集中

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


カール・バルトの神学の特質として言われるのが、「キリスト論的集中」だ。

 

教義学には、各論がいくつもある。「創造論」「罪論」「キリスト論」「義認論」・・・。こうした各論をどう扱っていくのか、というところに神学者の持ち味が出てくる。

 

バルトは、こうした各論をすべて「イエス・キリスト」という一点に集中しながら考察するのだ。

 

「創造論」を取りあげると、旧約聖書の1-3章がテキストとしてよく参照されるが、そこにはキリストは出てこないように思える。

 

しかし、バルトはそこにすでに十字架の御業が顕されている、と考える。


創造とは神が虚無的な闇を退けられて、被造物が生きるための場をお造りになったことだが、ここに「神の暗闇の力への勝利」がすでに語られている。


神が御言葉をもって虚無に打ち勝たれる、ということのうちに、イエス・キリストの御業を認めることができる。


十字架でなされたのは、まさにそのような神の勝利だからだ。

 

また、「教会論」にしても、「イエス・キリストが教会である」というテーゼを掲げて論じて行く。


教会に関わるすべてのテーマを、イエス・キリストから見ようとする。

 

およそ神学的なあらゆるテーマを、イエス・キリストという中心に集中しながら論じて行くのがバルトのやり方なのだ。

 

バルトの神学に養われると、こうした「思考法」を身に着けることができる。


自分が出会うさまざまな状況や課題もまた、イエス・キリストというお方の光のなかで理解していくことができるようになるのだ。

 

おそらく、この「キリスト論的集中」の「思考法」を身に着けさせてくれることが、バルト神学に親しむことの最大の成果になるだろう。

 

バルトの『教会教義学』は厖大な量がある。これを全部読むのは、並大抵ではない。


これだけを読んでも、他のいろいろな仕事をやりながらでは、数年はかかるように思う。

 

しかし、これは私見だが、バルトの「思考法」を身に着けることができれば、全部読まなくてもいいように思う。


研究者になるならば別だが、そうでない方の場合はバルトが提供してくれる「キリスト論的」な思考法が身に着きさえすれば、あとは自分自身で物事を神学的に考え、認識していくことができるからだ。

 

この「思考法」が身に着くには、バルトの著作をそれなりにたくさん読むことは覚悟しなくてはならないかもしれない。


しかし、この思考法はキリスト者にとって一生の財産になる。この思考法によって、現実認識が非常に豊かに深くされるからだ。

 

どうしてもたくさん読むことができない方は、バルトの比較的短い著作を何度も読む、ということでもいいかもしれない。


とにかく、「キリスト論的集中」という思考法を身に着けることができるかどうか、がバルトの学びにとっては決定的に大切になるように思う。



カール・バルト 「神学的爆弾」としての『ローマ書講解』

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


カール・バルトの『ローマ書講解』は、当時の神学界を激震させた神学的な「爆弾的著作」として有名だ。

 

ある牧師は、「あれはドイツ語で読まないとわからない」と言っておられた。

 

そのことの意味は、原文だと恐ろしいほど歯切れのよいぶつ切りの、震撼させるような文体で書かれているということだ。


日本語だと、この全身を震わせるような響きが、表現しにくい。

 

この本は、ドラムを激しく打ちたたく、熱狂したドラマーの演奏のような響きがする。

 

おそらく、「なんかあの本はすごい」というような噂をだれかから聞いて、「よし、読んでみよう」と思うのが、普通の入り方だと思う。

 

ところが、読んでみると、一体なにを言いたいのか、さっぱりわからない。


しかし「でもなんか受ける印象が激しくて、すごいぞ」というような感じで読み進める。

 

ある程度読むと、この本がもたらす「ものすごい響き」はわかるが、肝心なその「意味」がよくわからないまま、「疲れた。もう読めない」となる人が多い。

 

『ローマ書講解』の意味を少しだけ書こう。

 

この本は要するに、以下のことを言っている。


「神と人間はまったく違う!」


「神の前に人間は虫けらみたいなものだ!」


「『私は神を信じてますけど』というそこのあなた! あなたもそうなんですよ!」


「結局人間は徹底的にだめなんです!」


「そんなどうしようもない人間だからキリストが来てくださった!」


「そして、そんな人間だから、キリストを信じる以外にない!」


これを恐るべき思考力をもって、聖書に即してさまざまに展開しているのだ。


背景としては、「神を人間に身近な存在・人間をサポートする存在・人間の文化を助ける存在」として考える神学の存在がある。


いわゆる、「自由主義神学」だ。バルトも以前は、この一員だった。

 

ところが、第一次世界大戦で、自分が習った先生が皆この戦争を支持するのを見て、「この神学じゃだめだ!」とそこから抜け出て、ひたすら聖書を読んだ。

 

すると、そこに「まったく新しい、異なる世界の響き」をバルトは聞いたのだ。


これを表現しようと、万感の思いを込めて書いたのが『ローマ書講解』ということになる。

 

「人間が神を飼い慣らそうとする。神を人間の所有物にしようとする」という傾向が、自由主義神学にはあった。


「神は人間の自由になどならない。神は天にいますが、私たちは地上にいるから」と、彼はこの本で叫んでいる。


バルトは、この傾向に対して爆弾を投げ込んで、破壊しようとしたのだ。


実際、多大な影響を与えてかなり破壊できた面があったと思う。

 

神学に興味のある方なら、ぜひチャレンジしてほしい本である。これを読むのは貴重な経験になる。

 

しかし、「ひどく骨が折れる」ことは、前もって申し上げたい。



わが師匠 カール・バルト

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


自分にとって神学上の師を一人だけ挙げるとするなら、私はカール・バルトを挙げる。

 

彼の神学は、「別格」だ。


彼の神学は一つの「パラダイム」だと認識している。


「乗り越えて行く・克服していく」という性格のものではなく、「継承して、発展させていく」ものだ。

 

私が知っているなかで、彼の神学の根本的な弱点をついた人はいない。


というのも、彼の神学は実に宗教改革的なので、大きな「弱点」らしいものがないのだ。


少なくとも、私はバルト神学を覆すような根本的批判というのを、耳にしたことがない。

 

彼の神学を大きく否定すると、否定してしまった人自身が宗教改革の路線から逸脱してしまう、ということが多い。


彼はそれほど、ルターやカルヴァンを上手に継承している。

 

もちろん、「人間としてのバルト」や、「バルトを誤解した継承者」には弱点がある。

 

バルトは、自分の女性秘書と「不倫」とまではいかなくても、一般的に考えても好ましくないと言えるほど親しくしてしまった。


バルトの奥さんは、このことについて死ぬほど苦しんだようだ。

 

また、バルトの継承者のなかにはバルトの神学を単純に「厳密な聖書講解を促す神学」だと考えて、教会での説教を非常に学問的で味気ないものにしてしまった人もいた。


だから「バルト神学で説教すると受洗者も出ず、教会にとってはよくない」と考える人もいる。

 

これらは、バルトの神学に疑義を投げかけるものかもしれない。バルト神学に、こうした側面を誘発するところがあると、言えるのかもしれない。


しかし、彼の神学に触れる限り、これらを凌駕するような、神の恵みへの讃美が見出されるようにも思う。

 

この問題はむしろ、バルト神学の「継承」の問題ではないだろうか。


彼の神学は巨大なので、正しく継承するのが難しい。誤解して継承すると、そこからひずみは出てくるだろう。

 

しかし、私の考えでは、彼の神学を「乗り越えた」という神学者は、まだ一人もいない。


「乗り越えた」といっても、そのことが「誤解」に基づくことが多いし、非常に多くの場合、バルトの「全体のコンテクスト」から切り離した「言葉」を批判して満足している、という場合だ。

 

彼の言葉は、「全体のなかで機能している一部分」であるため、その部分だけを批判しても、批判していることにすらならない。


彼の『ローマ書講解』から読み始める人が多いようだが、これは読むのが実に困難だ。最後まで読み通すことができない人が多いと思う。

 

『教義学要綱』、説教集などから読むことをお勧めする。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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