カール・バルト 神学方法論としてのキリスト論的集中

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


カール・バルトの神学の特質として言われるのが、「キリスト論的集中」だ。

 

教義学には、各論がいくつもある。「創造論」「罪論」「キリスト論」「義認論」・・・。こうした各論をどう扱っていくのか、というところに神学者の持ち味が出てくる。

 

バルトは、こうした各論をすべて「イエス・キリスト」という一点に集中しながら考察するのだ。

 

「創造論」を取りあげると、旧約聖書の1-3章がテキストとしてよく参照されるが、そこにはキリストは出てこないように思える。

 

しかし、バルトはそこにすでに十字架の御業が顕されている、と考える。


創造とは神が虚無的な闇を退けられて、被造物が生きるための場をお造りになったことだが、ここに「神の暗闇の力への勝利」がすでに語られている。


神が御言葉をもって虚無に打ち勝たれる、ということのうちに、イエス・キリストの御業を認めることができる。


十字架でなされたのは、まさにそのような神の勝利だからだ。

 

また、「教会論」にしても、「イエス・キリストが教会である」というテーゼを掲げて論じて行く。


教会に関わるすべてのテーマを、イエス・キリストから見ようとする。

 

およそ神学的なあらゆるテーマを、イエス・キリストという中心に集中しながら論じて行くのがバルトのやり方なのだ。

 

バルトの神学に養われると、こうした「思考法」を身に着けることができる。


自分が出会うさまざまな状況や課題もまた、イエス・キリストというお方の光のなかで理解していくことができるようになるのだ。

 

おそらく、この「キリスト論的集中」の「思考法」を身に着けさせてくれることが、バルト神学に親しむことの最大の成果になるだろう。

 

バルトの『教会教義学』は厖大な量がある。これを全部読むのは、並大抵ではない。


これだけを読んでも、他のいろいろな仕事をやりながらでは、数年はかかるように思う。

 

しかし、これは私見だが、バルトの「思考法」を身に着けることができれば、全部読まなくてもいいように思う。


研究者になるならば別だが、そうでない方の場合はバルトが提供してくれる「キリスト論的」な思考法が身に着きさえすれば、あとは自分自身で物事を神学的に考え、認識していくことができるからだ。

 

この「思考法」が身に着くには、バルトの著作をそれなりにたくさん読むことは覚悟しなくてはならないかもしれない。


しかし、この思考法はキリスト者にとって一生の財産になる。この思考法によって、現実認識が非常に豊かに深くされるからだ。

 

どうしてもたくさん読むことができない方は、バルトの比較的短い著作を何度も読む、ということでもいいかもしれない。


とにかく、「キリスト論的集中」という思考法を身に着けることができるかどうか、がバルトの学びにとっては決定的に大切になるように思う。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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