自分にとって神学上の師を一人だけ挙げるとするなら、私はカール・バルトを挙げる。
彼の神学は、「別格」だ。
彼の神学は一つの「パラダイム」だと認識している。
「乗り越えて行く・克服していく」という性格のものではなく、「継承して、発展させていく」ものだ。
私が知っているなかで、彼の神学の根本的な弱点をついた人はいない。
というのも、彼の神学は実に宗教改革的なので、大きな「弱点」らしいものがないのだ。
少なくとも、私はバルト神学を覆すような根本的批判というのを、耳にしたことがない。
彼の神学を大きく否定すると、否定してしまった人自身が宗教改革の路線から逸脱してしまう、ということが多い。
彼はそれほど、ルターやカルヴァンを上手に継承している。
もちろん、「人間としてのバルト」や、「バルトを誤解した継承者」には弱点がある。
バルトは、自分の女性秘書と「不倫」とまではいかなくても、一般的に考えても好ましくないと言えるほど親しくしてしまった。
バルトの奥さんは、このことについて死ぬほど苦しんだようだ。
また、バルトの継承者のなかにはバルトの神学を単純に「厳密な聖書講解を促す神学」だと考えて、教会での説教を非常に学問的で味気ないものにしてしまった人もいた。
だから「バルト神学で説教すると受洗者も出ず、教会にとってはよくない」と考える人もいる。
これらは、バルトの神学に疑義を投げかけるものかもしれない。バルト神学に、こうした側面を誘発するところがあると、言えるのかもしれない。
しかし、彼の神学に触れる限り、これらを凌駕するような、神の恵みへの讃美が見出されるようにも思う。
この問題はむしろ、バルト神学の「継承」の問題ではないだろうか。
彼の神学は巨大なので、正しく継承するのが難しい。誤解して継承すると、そこからひずみは出てくるだろう。
しかし、私の考えでは、彼の神学を「乗り越えた」という神学者は、まだ一人もいない。
「乗り越えた」といっても、そのことが「誤解」に基づくことが多いし、非常に多くの場合、バルトの「全体のコンテクスト」から切り離した「言葉」を批判して満足している、という場合だ。
彼の『ローマ書講解』から読み始める人が多いようだが、これは読むのが実に困難だ。最後まで読み通すことができない人が多いと思う。