プロテスタントのペンテコステ派やカリスマ派の方々、また「霊的戦い」に関心のある方々は、カトリック教会のエクソシストについてご存じだろうか。
カトリック教会ではエクソシストが制度化されており、少数だが専門のエクソシストがいる。伝統的に練り上げられてきたエクソシズムの思想や実践を今でも続けている。
『エクソシストとの対話』(島村菜津著)という著書がある。
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ノン・クリスチャンのジャーナリストが突き放した客観的な視点で、カトリック教会のエクソシズムについて取材して、物語風に書き記したものだ。
この著書は、「霊的戦い」について関心があるすべての方に、ぜひ読んで頂きたいものだ。
ノン・フィクションとしてとてもおもしろいし、キリスト教に対しても非常に好意的に描いている。
また視点が多角的で、心理学的、神学的、社会的なコンテクストをふまえているため、読むと大変教えられる。発見と洞察に満ちている。
悪霊的な憑依や力をどう考えたらいいのか、カトリック教会の神父、社会的な状況に取材しながら、実像に迫っていく。
サタニズム、魔術、オカルト、性的虐待などが跋扈する世界で、精神的に痛めつけれた人々が、悪霊による「憑依状態」のようなものを経験し、病院をたらい回しにされた挙句の果てに、教会に助けを求めてやってくる。
こうした人々に向き合い、エクソシズムを行い、汚れた霊との戦いをする神父たちの様子も克明に描かれる。
最後はユング派の心理学者も登場して、エクソシズムは心理学的には一種の「演技療法」ではないか、という仮説も提示して、現代においてはエクソシズムは失われつつある叡智であるとしてこれを評価する。
この書のなかにでてくる、「カンディド神父」という、熟練したエクソシストの姿は、圧巻そのものだ。
この本はカンディド神父が亡くなってから、彼の仕事をたずね求めるような形で進んでいく。
彼は非常に謙遜な人で、祈りに専念して人目につかないようにしていたが、多くの人が彼を信頼して押し寄せてきたという。
カンディド神父との出会いによって、傷ついた青年、母親、父親、子供たち、高齢者たちが人生を取り戻していく。
だれもが信頼して押し寄せる有名なエクソシストであるにもかかわらず、数々の苦難で無一文になった障害がある女性のもとに、30年間問安して祈り続けたという記述を読んだときは本当に涙が出た。
カンディド神父に比べれば、自分は明らかに偽物の牧会者だと思わざるをえなかった。
カンディド神父は心理学者とも親しく交流しており、精神的不調をすぐに悪霊によるものと考えたりしない。
カウンセラーとも連携して取り組んでいる。自分のもとへくる97%の人々は悪霊の憑依ではなく、なんらかの精神医学的な病にかかっている、という。
私が理解したところでは、カンディド神父のエクソシズムの優れているところは、出会っている人の示す症状や原因、あらわれてくる悪霊的な力がなんであり、どんなものであるのか、といったことよりも、ただ率直に苦しんでいる人を愛するところにある。
悪霊の憑依のような異常現象に出会うと、「一体、これはなんだ?」という知的興味が先に立ってしまうきらいがあるが、それを知ることが本質ではないのだ。
目の前に事実として苦しんでいる人がおり、その人を苦しみから解放するために奉仕する必要がある。
エクソシズムはその奉仕の一つの形に過ぎない。
その核心をまっすぐに見据えて、愛と忍耐をもって立ち続け、信仰をもって神による救いを呼び求めること、それが悪霊的な力との戦いの本質なのだ。
悪霊がどんなもので、どんな力をあらわすかなどはある意味どうのようにでも解釈できる課題だ。
神学的、心理学的、社会学的コンテクストで、どのようにも理解できる。
問題の核心は苦しんでいる人が解放されるように奉仕する、隣人愛にある。
その愛が欠けているなら、霊的戦いもまた無意味になることが、カンディド神父の姿から教えられる。