「霊的戦い」について④ 「異言」について

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


「異言」について、いま考えていることを、整理するためにも書いてみたい。

 

多少、異言について斜めから見ている文章だが、いろいろと研究を重ねて、現在理解しているところを記してみる。

 

第一に「異言を語らない人は、聖霊のバプテスマを受けていない」という意見を耳にすることがある。


これは、ペンテコステ派の一部の方々の理解かもしれないが、聖書的には間違いだと私は思っている。

 

決定的な反論としては、第一コリント12:30に「皆が異言を語るだろうか」とパウロが語っていることからもわかる。


初代教会であっても、聖霊を受けただれもが異言を語っていたわけではないのは明白だ。

 

初代教会における「霊の賜物」は、それぞれのキリスト者に対して、「使徒、預言者、教師、奇跡、癒し、管理、援助・・・(第一コリント12:27-30)」とあるように、一人ひとりに違ったものとして顕現していた。

 

つまり、異言を語る人に癒しの賜物がなかったり、癒しの賜物があっても異言は語れない、という具合に、霊の賜物にはそれぞれ人によって「かたより」があったのだ。

 

だからこそ、「全体の益になるため」(第一コリント12:7)という教えに意味がでてくる。


「かたより」を互いに補い合うことで、教会の賜物はパズルのピースが合わさるように、教会として支えあうことで、全きものへと近づいていく。

 

聖霊のバプテスマを受けても、異言以外の賜物が与えられることは、聖書からしておおいにありうる以上、異言だけに「聖霊のバプテスマのしるし」を限定することはできない。

 

第二に、「異言」がそのまま、直接的に「聖霊のしるし」とはならないことがある、ということだ。

 

「異言を話しているから、聖霊がおられる」という風に言えるような、単純なものではないのではないか。

 

『鎖を解き放つ主』(ニール・アンダーソン著)という「霊の戦い」についての著書に興味深い事例がのっている。

 

ある人は、異言を語ることができたが、生活がめちゃくちゃになっていた。


その魂に向き合ってみると、悪霊的存在が内在していることが明らかになった、という。この霊はイエスを主であるとは告白しなかったのだ。

 

ヨハネの手紙でも、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい」(第一ヨハネ4:1)と言われている。

 

特に「生活に出てくる結果」の面で、明らかに聖霊的ではない習慣や出来事が多いなら、その異言もまた疑わしいものになるのではないか。

 

前掲の書は、冷静で経験のあるクリスチャン・カウンセラーの視点から「霊の戦い」の次元を描いており、良識があり、好感がもてるものなので、ぜひお読み頂きたい。

 

 他宗教の世界を見てみても、「異言」は登場する。

 

キリスト教会だけが異言を語るわけではない。


東洋思想、「気功」などの世界にも異言らしきものはあるし、瞑想状態で異言を語ることについては、他宗教や深層心理学、精神世界などではいろいろな異言についての報告がある。

 

そういった「異言」を子細に分析してみると、トランス状態で右脳的に無意識的記憶の文字情報をランダムに再構成している、ということがあるようだ。

 

言語学ではソシュールという人が晩年、「アナグラム」についての研究をしていたが、「無意識的言語記憶のランダムな再構成」という意味での「異言」と、おおいにリンクする面があるように感じる。

 

左脳的ロジックを完全に停止してしまい、文字記憶をランダムにつぶやくだけで、そこに不思議な異言現象が起こるといえる。

 

つまり、ある意味ではなんらかの脳に働きかけるような「異言を語るための訓練」をすることで、異言を「習得」できる可能性は否定できない。

 

「聖霊なる神の業」としてでなくても、異言が発現することがあるなら、異言自体が直接的に「聖霊の内住」を保証するものとはならない、ということだ。

 

「異言」の「すべて」が聖霊なる神に帰することができるわけではない、ということにもなる。

 

第三に、異言は「最高の賜物」ではない。


パウロが語っているように、「最高の道」とは「愛」であって、愛がなくては異言もまた「やかましいシンバル」に過ぎないのだ。

 

異言には「自己の信仰を鼓舞する」という働きがあるようであるし、神の臨在を親しく体験するための手段だろう。

 

しかし、「なんのためにそれをするのか」という「愛」がなくては、ただの自己愛の延長になってしまう。

 

「自らの信仰が鼓舞されること」によって、「神の使命と計画により深く、広く参与し、人々に奉仕する」という「神への愛、隣人への愛」の部分がなくては、異言もまた自己愛に過ぎないのではないか、ということになる。

 

以上の三点を考慮すると、異言自体には、確かに人の心をひくいろいろな要素があったとしても、それほど大きな意味がある、ということにはならないように思うが、どうだろうか。

 

もちろん、異言が語れる人は、聖霊の賜物として感謝しつつ自分と神との関係で語ればいいかと思うし、それをことさらに否定する必要などないのは当然だろう。

 

ただパウロは解き明かす人がいないなら、教会で異言を語っても有益なものではないので、自分は教会では理性で語る方を取る、と言っている。

 

異言を語れるからといって、教会形成にとって意味がそれほど大きくないとするなら、パウロの「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(第一コリント12:31)という教えに従って、異言に安住することなく、更なる賜物を求めて前進を期してこそ、異言にもまた意味が出てくるということになるだろう。

 

かなり「微妙」で「うがった」見方を書いてしまったかもしれないが、牧師の一意見としてご参考にして頂ければ、それだけで感謝である。

 

異言について、まったく別のご意見をお持ちで、本稿でもし心を傷つけてしまった方がおられたら、まことにすみませんでした。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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