礼拝や集会、牧会のなかで「病人のために祈る」ということを取り入れている教会は多い。
ペンテコステ派やカリスマ派ではない教会でも、牧会祈祷のなかで病人や長欠の兄弟姉妹のために祈るのは一般的だ。
しかし、こうした多くの教会で祈りによって事実として病気が癒されるのを信じ、期待しているかどうかは、別問題だ。
かなり多くのキリスト者が、「この祈りによっては癒されないだろうが、長期的には医療行為によって癒されるのではないか・・・」というような、生ぬるいあきらめの思いで祈っていることが多くある実態ではないかと思う。
この反対に、祈りによって瞬間的に癒されることを強く期待して「病者のための祈り」を実践している教会もある。
このような癒しは奇跡的な性格を持つことになる。
私がペンテコステ派やカリスマ派の兄弟姉妹に「真理」を見る一つは、彼らは「心から癒しを信じて祈っている」ということだ。
リスクを冒してでも、癒しを祈る信仰の冒険に踏み出している。
だからこそ、事実癒しが起こされ、キリストへの証しもまた生まれている。
一方、「主流派」と言われる教会の多くは、病気の癒しも本気では信じていないのではないか、と感じるところがある。
主イエスが病気の癒しを行われたのを、「昔話」にしてはならないのではないか。
こういった領域については、ペンテコステ派やカリスマ派の方々に教えを乞うのはいいのではないかと感じている。
私自身は、「病気の癒しのための祈り」の実践を考えるとき、その実践がいろいろな意味で「危険なもの」にならないための基準を持っている。
考え方の面で以下の基準に合致していない場合は、「癒しのための祈り」の実践は危険な領域に入ってしまうことがありうるため、警戒するようにしている。
1:すべての人が癒されるわけではないことを認める。なんらかの理由により、癒されないこともある。
2:医療行為を否定しない。医療と祈りは同時並行すべきである。
3:病気の癒しはあくまで「副次的」なものであり、福音の本質は霊的な「救い」にある。
4:癒し手はあくまで神ご自身であって、人間はそのための手段・器に過ぎないことを認める。
この主題との関連で、ジョン・ウィンバーの『力のいやし』という書物を読んだ。
この人についても、賛否両論あるのは知っている。彼を異端視する人もいる。
私も最初は疑いをもって読み始めたが、読んでいくとこの本はバランスがとれており、上記の基準にもまったく合致している。
この著者は癒しにまつわる危険も熟知している。
私自身は、この本の教えはかなり健全であり、大変学ばせられるところが多いと感じた。
神学的にはそれほど深められていないが、豊富な経験に裏打ちされており、私たちの旧態依然とした殻を打ち破ってくれるところがある。
「主流派」の教会はなかなか人が来ずに衰退を経験しているわけだが、ペンテコステ派やカリスマ派の方々の教えは、じっくり吟味したうえで受け入れるなら、豊かな「栄養分」と「刺激」に満ちていると私は感じる。
彼らの「すべて」を否定するのは、まったくの間違いだ。むしろ、学ぶところは非常に多い。
こうした教えをじっくり考え抜くことで、新しい信仰の深まり・高まりが出てくるのではないか。