今回は、「霊的戦い」について書いてみたい。
これは、非常にデリケートな課題であるため、慎重な注意を要する。
これを読む人によっては、ここに書いてあることが危険な考えであると響くこともあるかもしれないし、嫌な気分になる方もいらっしゃるかもしれないけれど、お許し頂きたい。
「霊的戦い」という言葉を聴くとき、私の理解では3つの反応をする人々がいる。
1:なんらかの形で祈りにおける「霊的戦い」を学んで実践している人々で、ポジティブに反応し、学ぶ意欲がある。「主イエスの御名によって、悪霊を追い出す」ことを、生活に取り入れている。
2:「霊的戦い」が存在することも知らない人々で、キリスト者の戦いの領域を社会やこの世に限定している。
「悪霊と闘う」というような言葉を聴くと、「現代人の私には到底ついていけないし、そういうのはオカルト以外のなにものでもない」と感じる。
3:「霊的戦い」について、またそれを「悪霊との戦い」と考えて実践している人々がいることは知っているが、非常に胡散臭くて不健全だと考えており、これについて聞くとネガティブな反応をする。
「霊的戦い」が存在することは聖書的に認識しているが、非常に穏健なレベルでとらえており、「霊的戦い」とはみ言葉を聴いて祈ることによってなされると考えている。
「主イエスの御名で悪霊を追い出す」ことを、実践的には行わない。
ざっくり分けて、以上の3グループが存在していると思う。
偏見も交じっているかもしれないが、非常に単純化して、教派で分けてみよう。
1グループ:ペンテコステ派、カリスマ派
2グループ:リベラル派(自由主義神学派)、社会派
3グループ:保守を志向する福音派やリベラル派の中の福音派
私は、これらの三つの立場の中で言うなら、基本的に自分は「3」だと思っていた。
だが、最近「3」と「1」の非常に微妙なバランスのうえに成り立つ、中間くらいの立場が、最も真理に近いのではないかと感じている。
「悪霊を追い出す」ことは、主イエスもなさっているし、主の弟子も行っている。
だが、私自身はブルームハルト牧師が経験したような経験もないし、身近な信徒のだれかが悪霊に憑依された、というのを現実的に見たこともない。
日本のコンテクストだと、「憑依現象」というのは古代から広くみられるもので、恐山の「イタコ」や、沖縄の「ユタ」の存在は有名だ。
最近になって、こうした領域について一度じっくり研究してみようと考えて、時間をかけて他宗教のものや心理学も含めて、いろいろな本を読んでみた。
特に役に立ったのは、カール・グスタフ・ユングの心理学で、彼の「コンプレックス」の理論は、「悪霊」の問題を非常にクリアに説明してくれる面があると感じている。
もちろん、これだけで「すべて」は説明できないが、少なくとも「霊的存在」の心理学的意義については、はっきり示してくれる。
この課題については、自分なりの心理学的・神学的な研究を『心霊現象とキリスト教』という著書としてまとめた。
自分なりにたどりついた結論は、こうだ。
教会の成長を祈り、救われる人が起こされることを願っている牧師は、「霊的戦い」を自分なりの再解釈と応用を何度も何度も加えて、自分の文脈に適用可能なレベルにじっくりと昇華したうえで、牧会の実践に取り入れることは人々が救われるうえでプラスになる、ということだ。
「3」の立場にいて、「一体、これからどうしたら教会に救われる人が起こされるのだろうか」と悩んでいるとき、「霊的戦い」のさまざまな教えはなんらかのヒントを提供してくれていると思う。
ただ、厳重な牧会的・神学的注意と批判的吟味が必要なことは、明白だ。
ピーター・ワグナーをはじめとした一連の人々が、霊的戦いのことをいろいろと執筆している。
だが、これらをそのまま日本の文脈に適用はしない方がいいと思うし、これを鵜呑みにすることは危険だとも感じている。
彼らの教えを一つの「参考書」「たたき台」として、牧会的・神学的に再解釈と応用を重ねたすえに、まず牧師自らが「霊的世界」がどういうものであるかを自らの経験と聖書によって知るのを深めていかないと、ほとんど適用は無理だ、というのが個人的な感想だ。
ただ、彼らの教えは、なんらかの「刺激」に満ちている。少なくとも、キリスト者として忘れてはいけない、「霊的領域」について、なにがしかを示してくれていることは確かだ。
この「刺激」を「刺激」に終わらせず、日本伝道のための「真の栄養」へと高めることが求められているように思う。
ピーター・ワグナーをはじめ、こういった路線を歩む牧師・神学者を危険視する方々がおられることは十分知っているし、事実そういう面があると思う。
しかし同時に彼の書物にはなんらかの「真理」もまた含まれており、しかもその含まれている真理が世俗化に脅かされている現代の教会の状況では、かなり重要なのではないか、という気がする。
鉱山からダイヤを発掘するつもりで、こうしたものを読むのは、「見分ける・聞き分ける」訓練になる。ご一読と、更なる解釈・展開・深化を期待したい。