神学を学ぶもう一つの意味は、「自分の信仰の在り方が聖書と教会の伝統に即して正しいかどうか、吟味する」ことだ。
キリスト者も教会も、神の御前に正しい信仰を抱くことによって、前進することができる。
信仰が間違うなら、もはや前へ進むことができない。
それでは、信仰の「正しさ」というとき、なにを基準にすればいいのか。
第一の基準は「聖書」だが、第二の基準は「基本信条・信仰告白」だ。
そして、ある意味では第三の基準が「神学」であると言える。
信仰がどこまで正しさを保持しているかというとき、聖書や信仰告白を参照しても、よくわからないこともある。
そういうときは、そのキリスト者、教会が属している教会の伝統、つまり教会が属している教派の神学が意味をもつ。
教会が守ってきた神学の伝統に照らして、その「正しさ」が吟味されるのだ。
ある特定の教派の教会として、その信仰の在り方がふさわしいものかどうかについて、神学的伝統を参照することによって答えが出る。
どの教会でも、なんらかの神学的伝統を背景として持っている。
そこを学ぶことで、その教会で語られている説教は正しいものか、信仰の在り方はどうなのか、それが吟味されるのだ。
牧師にとっては、神学を学ばないということは、「正しさ」の基準がわからなくなることを意味する。
牧師が神学を学ばないなら、自分自身のみならず、教会を迷走へと引き込むことになる。「正しさ」の基準を失ってしまうからだ。
神学を学ぶことは、キリスト者と教会が説教し、祈り、信じ、奉仕する、そのすべての在り方を「点検」することであり、間違っているところを割り出して改善していくうえで、有益なのだ。
この「軌道修正」の作業を継続的に行わないと、教会は牧師も含めて罪人の群れであるため、方向性を間違い、厳しい状況に引き込まれてしまう。
与えられている道を飛び出してしまうのだ。
神学はそうしたことから教会を守る、ガードレールのような存在なのだ。