「神学論争」という言葉がある。政治の世界でも、時に使われる。
よく調べていないが、おそらくこの言葉が使われるのは、「現実的な意味のない空論」というような意味なのだろう。
「神学論争」をこのような意味で使う方々が、どこまで実際の神学書を読まれているのか、わたしにはよくわからない。
おそらく、まったく読まれていないから、疑問もなくこうした言葉を使われているという面もあるかと思う。
たしかに、教会史のなかで現実に行われた「神学論争」は、クリスチャンでもない日本人の多くの方々には、まったく意味不明なものに思われても仕方ない面がある。
使われる用語や、その意味内容は日常的な感覚からすると、「ぶっとんでいる」論理だろう。
しかし、「こんなもの無意味だ」と断じる前に、神学書を読む意味とはなにか、神学の意味とはなにか、と考えてみたい。
キリスト教神学は、基本的にキリスト者である人によって営まれる。神学書は、キリスト者でないと本当には理解できないものだ。
神学の一つの意味は、キリスト者と教会の「現実理解」に奉仕する、ということ。
たとえばの話だが、ある子供が突然、知らない家庭に連れてこられたとする。
その家庭はとても優しい、素晴らしい親が営んでいるところだが、独特な家風やルールもあるらしい。
そうした状況に置かれたら、子供としてはそこの親がどういう人なのか、そこの家風やルールや、やり方はどういうものなのか、「知りたい」と願うのではないか。
そういうことをしっかりと理解すれば、その家庭でより安心して、より楽しく生活できるからだ。
三位一体の神を信じて洗礼を受けるとは、こうした「神の家」の一員になることだ。
神の家族の一員として生きるとすれば、その家を治める父なる神はどういうお方なのか、兄弟イエスはどういう存在なのか、家を満たす聖霊なる神の愛はどういうものか、その家庭がどういうところなのか、知りたくなる。
このような理解に奉仕するのが神学なのだ。
もちろん、このような理解は、基本的に教会での説教によって与えられるもので、これが主であることは言うまでもない。
しかし、その理解をより深め、広めていくために、神学は有益だ。
キリスト者、教会が生かされている神の現実を理解する営みが、神学なのだ。