「神学を学ぶ」という言い方がある。
これは、具体的にはなんらかの神学者の神学書を読むことを意味する。
しかし、これとは別に「神学する」という言い方がある。
「神学」の動詞形だ。
「グーグルで検索する」ことを「ググる」というが、「神学を営む」ことを「神学する」という。
「神学する」とは、キリスト者においては自らが経験している現実を神学的角度から理解することだ。
教会においては、教会が置かれている状況と現実を、神学的視点から理解し、教会の職務を実行していくことだ。
「神学書を読む」ことの目的は、「神学する」ことにある。
神学書を読んで、聖書や教理についての知識が増えても、それだけでは意味がない。
神学的知識を通して現実を解釈し、現実に取り組み、神の御前でキリスト者と教会にとって課題を解決し、よりよい道を模索し続ける作業、つまり「神学する」作業があって初めて、神学書は実を結ぶことになる。
このところが本末転倒になると、「神学馬鹿」が誕生する。
つまり、神学書についてはやたら詳しく、神学の奥深く、わけのわからない知識を非常に豊富に知っているが、それをもってどう教会とキリスト者の現実に取り組むのか、という視点がまったく欠如しているような在り方のことだ。
「神学書を読む」ことは、それ自体が目的というよりも、現実の歩みにおいて「神学する」ことが目的なのだ。
このところを誤解すると、本当に悪い意味での「神学論争」に終始しながら、しかもなんの実りも変化も成長もない、という状態になってしまう。
「神学する」ことは、現実の生活のなかで出会う課題と真摯に向き合うことによってなされる。
私たちが出会う経験や出来事は、それを解釈する角度と視点によって、まったく異なる姿を見せる。
「お金に困る」という経験は、「経済的視点」からも「経営学的視点」からも「文学的視点」からも見ることができる。
キリスト者と教会という文脈では、これを「神学的視点」から理解するのだ。
「神学を学ぶ」ことを通して、「神学する」ために必要な知識を受ける。この知識を用い、応用して現実の出来事や生活の課題を、「神学的視点」から理解することができるよう、努める。
「牧師」とは、信徒が抱えている課題についての「神学的理解」を示し、導くものだ。
日頃から、見聞きする課題や出来事を、「どう神学的にとらえることができるのか」という修練が必要になる。
そのための道具として、神学書は与えられている。
神学書を読むことで、現実を神学的に理解する認識が深められる。
そのことをもって教会に奉仕する。それが神学の意味なのだ。