これまで、二回の記事で牧師の辞任・転任についての信仰的意味などについて書いてきた。
今度は牧師を招聘する側の教会の課題を描きたい。
牧師を招聘する教会としては、どんな課題があるのだろうか。
牧師は神からのある程度以上に個性的な召しにあずかっており、その牧師が召しを自覚しているかどうかは、非常に大きな課題であって、これは多くの理解と考察を重ねなくてはならないだろう。
それは、また考えを深めてしばらく後に、促しを覚えたら書きたいと思う。
一方、牧師を受け入れる教会の側にも、大きな課題がある。
具体的には、ある教会の牧師が辞任・転任した場合、「どの牧師を次に招聘するか」ということになる。
これは、教会としては「招聘委員会」を立ち上げて、協議することになるだろう。
ただ、実際的には教会の信徒は、どこにどんな牧師がいるか、などという情報は、ほとんど持っていないことが多いため、信徒がこれを判断するというのは、非常に難しい。
「神学校に頼む」や、「前任者の推薦」、「教会として信頼関係を深めてきた牧会者に頼む」、「教派的グループに属しているなら、そこに頼む」などのルートがあるだろう。
どちらにしても、なんらかの牧師についての情報・伝統の資源を担っているところに、依頼することにはなるかもしれない。
しかし、教会としてはどうしても、招聘委員会で協議しなくてはならない課題があろうと思う。
それは、「今、教会はどんな歴史的状況に置かれているのか」を、聖書と信仰をもって語り合い、協議しながら見出していく、ということだ。
つまり、牧師は前の記事に書いたように、ある程度以上に個性的な召命にあずかっている者だとするなら、「どのような牧師を招聘するか」ということは、「今、教会はどんな歴史的状況を歩んでいるのか」という課題を見出すことなくしては、基本的にわからないままである、ということになる。
こうした教会の歴史的状況は、その外部にある、なんらかの団体には、実態としてはわかりようがない。
そこで、招聘する側の教会の最も大きな課題としては、「これまでの歴史の信仰的認識と、現状の課題の把握と、教会の歴史として今後なにが求められているのか」という事柄について、共同体として認識することだ。
もちろん、こんなことはそう簡単にはわかりもしないし、個人によってそれぞれ解釈も異なるに決まっている。
より悲観的な人もいれば、より楽観的な人もおり、異なる見解をそれぞれが担っている。
しかし少なくとも、教会としてこれまでの歩み、今後の教会の歩みを回顧・展望して、神によって置かれている状況について、各自が祈りをもって語り合いながら、理解を神に求めていく必要がある。
こうした作業が進められるなかで、「教会の今後を担う牧師」についての理解もまた、少しずつ示されてくるだろう。
その理解の積み重ねがある程度でもあり、これをふまえたうえで神学校やなんらかの団体や個人に人事を依頼することで、人事における度外れた失敗というものを避け、より建設的に教会の歴史を重ねていくことができるのではないか。
ところが、現実的な人事を見ると、こうしたところとは離れているところもあり、不安を抱かざるをえないものがある。
人事を行う神学校や団体も、各自の牧師の召しをどれほど認識しているかというと、心もとないばかりか、牧師自身もまた自らの召しについて自覚を深めていないことが多い(自分自身への自戒も込めて)。
現実には教会でも、その時点で置かれている状況を信仰的に解釈できるほど、信徒が育っていないことの方が、ずっと多い。
実際上は、人事を依頼する教会も、これを受ける牧師も、牧師を推薦するなんらかの団体も、それぞれが召命や状況についての認識が不十分なままで、「えい、やあ! 後は委ねよう」というところで、人事しているのが、現状なのではないかと思われる。
もちろん、人事をしてくださっている方々は、本当に厳しい時間的余裕や数々の条件のすり合わせのなかで、祈りと配慮をもってされており、本当に心労ばかりが重なるような辛さがおありであろうし、その人事が失敗したとなれば責められたりもしなくてはならず、心が休まる時もないであろう。
本当にお疲れ様です、ありがとうございます、としか言いようがない。
より深刻かつ根本の課題としては、「教会の歴史的状況にふさわしい召しを担っている牧師を求めているのに、牧師が不足していて、そういった人がどこにも見当たらない。仮にいたとしても、職務を離れようとはしない」、ということだ。
こういった事例は、ほとんどいま日本中にあふれており、植村正久牧師が語ったような教会にとっての「慕わしい牧師」がどんどん減っている悲しい現実がある。
先人に多くみられたような、キリストと教会にすべてを捧げたような筋金入りの牧師は、今どんどん天国に移されている。
にもかかわらず、若い牧師の献身者は減り続け、教会も神学校も苦労と心労ばかりが増えていく。
「召命」の「正論」についてこれまで書こうとしてきたが、ここで大いなる「躓きの石」に出会うのだ。
「理想としては、神学的正しさではそうかもしれないが、現実はまったく違っている」という躓きの石に。
さて、これから、この課題をどうするか。どう現実を地道に改善していくか。
これこそが、これからの「日本伝道」の中枢にある、急所をなしている課題なのだ。
「働き人を送ってくださるよう、収穫の主に祈りなさい」という主イエスの御言葉を、新たに受け止め直していきたい。