牧師の辞任・転任について① 「辞任・転任の動機の是非」

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牧師の転任や辞任を信仰的・神学的に考えるとどうなるのか、私自身未だによくわからないので、この記事を整理のために書かせていただく。

 

見知った牧師の多くが辞任や転任をされているのを聴いて、信仰的・神学的にこれについて考える必要を深く感じている。

 

私自身の主観的な思いでは、多くの牧師の辞任・転任は実際的な面で、どうしても「召命」に基づくものとは思えない、という節がある。

 

転任の動機となっていることは、本当に「召命」なのか。それとも、ごく人間的な動機なのか。

 

これを問いかけたとき、後者であるとしか思えない例が、非常に多いと感じるのは、私の錯覚か幻想なのだろうか。

 

もちろん、最終的にはこういったことは、神にしか判断することがおできにならないのは、言うまでもない。

 

だからといって、人間的な動機を「召命」という言葉でラベリングするという「罪」を犯していないかどうかについて、自ら顧みることをしないでよいということにはならないだろう。

 

「召命」には、どうしても「人間的間違い」が生じることがあるため、信仰的な「検証」が必要なのではないか。

 

以下は、「検証」のための「基準」の参考例である。

 

牧師は「召命」によって自らの使命を担う。

 

つまり、「自分は神によって、この任務に召されている」という確信があるかどうかが、最も重要な辞任・転任の指標ということになる。

 

ところが、現実的に牧師の辞任・転任は、どういったことでなされているだろうか。

 

第一に「経済的な困難さ」がおそらく、最も多いのではないか。

 

つまり、「小さな教会ではもはや、自らも家族も養われないため、転任せざるをえない」ということだ。

 

これは最も理解しやすい理由かもしれないし、こう言われてもなお牧師に「留まるべきだ」という人はいないと思う。

 

ただ、これ自体は直接的には「召命」とは関係ない。

 

第二に、「消耗戦に疲れた」がある。

 

教会での職務は、じりじりと心身が消耗戦をしていく種類のものであり、「大成功」などとはほとんど無縁のまま、何年も推移することがほとんどだ。

 

こういったものに疲れ果て、働きのなかに人々の称賛を得られるような「自己実現」や「野心」を満たすものもなに一つなく、時間だけが過ぎていく、ということは、耐えがたい側面があるのは確かだ。

 

しかしこれも、直接には「召命」に関係がない。

 

第三に、「職務に飽きた」があるだろう。

 

人間は、同じ場所にずっといると、そこに飽きてくる性格を持っている。場所だけでなく、働きについても同じことだ。牧師という「業務」が、蓄積した経験や知識で「こなす」ことができるようになってしまうと、「飽き」がどうしてもでてくる。

 

職務を「こなす」ことをしているうちに、「飽き」がひどくなり、「刺激」を求めて転任する、ということもある。

 

これも「召命」には関係がない人間的都合だ。

 

第四に「その任地では、したいことができない」ということもある。

 

牧師にもタイプというものがあるが、教会の規模によってその牧師がしたいと願っていることがあまりにできないと、つまらなくなって転任する、ということもあるだろう。

 

これも「召命」と関係があるとは思えない。

 

また、これはある意味最も強力なものかもしれないが、「暗黙の牧師の歩みのルート」というものがある。

 

つまり、「牧師は神学校を出たら、しばらく地方教会で下積みをして、経験や知識がついたら中規模教会へ行き、更に経験を積んだら都会の大教会へ行く」というような、教会の歴史で何度も歩まれてきたような「暗黙のルート」があり、こういった道を進むことが「牧師としての王道である」という錯覚をもたらしている、と言える。

 

しかし、これも人間的なルートに過ぎず、神の「召命」とは関係がない。

 

また悲しいことに現実的に最も多い転任の動機として、「教会で問題を起こしてしまい、それ以上いることが難しくなった」がある。

 

牧師も罪人であるので、この理由は現実的に非常に多いものだ。

 

しかしこれも、「召命」によるものとは、直接には考えられない。

 

さらに、「ほかにしたいことができた」ということもある。

 

教会の職務以外の働きをしたくなったり、留学や学問などをしたくなったり、といったことも起こりうる。

 

これらも、「召命」かどうかは、よく検証しなくてはならないだろうし、キリストが教会を愛し、ご自分を捧げてくださった方であるとするなら、これらもまた直接的に召命となるかどうかは、疑わしいものだ。

 

以上の7つは、よく見られる動機であるとは思うし、「召命」を受けるうえでの背景や人間的状況にはなるかもしれないが、それ自体としては「召命」に関係のないものではないか。

 

神はこういった状況のなかで、これらのうちに働いて、牧師を新たに召す、ということも、もちろんあるだろうし、神にその自由がないということはありえない。

 

ただ、それでもこれら「そのもの」を転任の動機とするのは、どう考えても転任や辞任を考えるうえでの「正道」ではないと言わざるをえない。

 

これらの只中で、「神の召命の言葉を聴いたのか、どうか」ということは問われるが、人間的状況自体が転任の動機になってはならないだろう。

 

つまり、以上のような負の要素が牧師としての自分の歩みに生じているからといって、「だから転任しよう」と考えるのは「召命」の視点からすると、間違っていると考えるべき、ということではないか。

 

これらの要素があったとしても、「まずは飲み込んで忍耐しつつ、キリストと教会への職務を果たす」ことを第一に考えるのが、牧師の職務の内実ではないかと思われる。

 

上のすべての否定的要素があったとしても、神は御言葉ひとつで、それら全ての要素を取り除くことも、おできになるお方だからだ。

 

今回は、「なにが辞任・転任の正しい動機ではないのか」という消極面を書かせていただいた。次の記事で、「なにが正しい動機となりうるのか」について、考えてみたい。



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