牧師の辞任・転任について② 「牧師の召命と教会の状況」

 換來的十字架- tinikuan 部落格- udn部落格


牧師が辞任や転任をするというとき、「どういった動機であるなら、神の御心にかなうものとして受け入れられるのか」について、この記事では考えてみる。

 

牧師がある教会を辞任し、転任するというとき、「召命」に基づいてこの判断がされるわけだが、実際としてこれはどういうことなのか。

 

ここからの論は私が経験的に学んだことからの神学的類推も含んでいるため、絶対に正しいというわけではないし、これをだれかに押し付けるつもりもない。

 

ただ、私が他の先生方から教えを受けたり、歩みを見させて頂くなかで理解してきたことから、書かせて頂く。

 

牧師がある教会を辞任・転任するというときは、「牧師の召命」と「教会の置かれている歴史的状況」との関係から決まるのではないか、と思われる。

 

これは私の個人的直観だが、神は牧師をみんなまったく同じ「召命」にあずからせるのではなく、「教会を牧する」といっても、各人に異なるタイプの召命を与えておられると感じている。

 

そう考えないと、納得も理解もできない事象が存在するからだ。

 

つまり、ある牧師は「教会を建て直す」という召命が与えられている。

 

別の牧師には「小さな教会を大きな教会へと導く」という召しもあるだろう。

 

「大教会を牧することで、他の多くの教会を支える」という召しもあるだろう。

 

「生涯に渡って小さな教会を牧する」という召しもあるだろう。

 

「牧する教会は小さくても、他の多くの教会との関係を築く」という召しもあるかもしれない。

 

自分がどのような召命にあずかっているかということは、牧師が祈り求めて、少しずつ悟っていく以外にはないように思う。

 

職務を果たすなかで、知識と経験を重ねながら、少しずつ神によって示されていく課題だろう。

 

個人的には、牧師自身が「自分の魂は、教会がどういった状態になることについて、最も憧れやロマン、喜び、夢や希望を感じるか」ということを問いかけたとき、ごく自然に、良心に完全に合致した形で出てくる答えが、その牧師の召しを部分的にでも反映しているのではないかと思う。


もちろん、これが絶対ではないが、小さな指標にはなるだろう。

 

牧師は「教会の職務を果たす」ということにおいては共通していても、「どんな風に、どこまで、どんな形でそれを果たすのか」といったところにおいては、異なるタイプの召しを担っている、ということだ。

 

そして、こういった牧師の召しのタイプと、教会の置かれている歴史的状況が「一致」しているときは、牧師はその任務に留まることになる。

 

しかし、ある特定の段階で召しと教会の状況が「不一致」となったとき、牧師は転任について祈るようになるのではないか。

 

たとえば、「教会を建て直す」という召しを担う牧師は、いろいろな課題を抱えて壊れかかっている教会に赴任するだろう。

 

そして、これを建て直す職務を果たすが、時間が経過してこれをある程度果たすことができたと祈りのなかで判断できたとき、転任すると思われる。

 

「小さな教会を牧する」という召しの牧師は、職務を果たしているうちにだんだん教会が成長して、自分がいなくてもこの教会は大丈夫だろうと感じたら、そこを離任して、より小さな教会に赴任するだろう。

 

「大教会を牧して、他の教会を支える」というタイプの場合は、たとえばその教会が幾つかに分裂してしまい、他の教会を支えることができなくなったら、転任を考えるのではないか。

 

以上のように、牧師は神からそれぞれ、ある程度以上に個性的な「召命」を与えられており、これをその教会で果たし、教会に奉仕することができているうちは、その任地に留まる。


しかし召しと教会の歴史的状況が不一致の状態になったとき、自分は使命を果たし終えたと考えるようになると思われる。

 

こういった形であるなら、おそらく神ご自身にとっても、教会にとっても、牧師にとっても、創造的・建設的な形での辞任・転任になるのではないか。

 

というのも、牧師の召しと教会の状況が不一致のまま、牧師がそこに留まり続けることは、結果的に牧師と教会の双方にとって大きなマイナスである以外にはなくなるからだ。

 

前任の牧師が辞任して、新たな任務を帯びた牧師が赴任することで、牧師も教会も新たに前進し、歴史を刻むことができるようになる。

 

以上の考えは私の個人的なものであり、神学校で教えられていることでもない。

 

ただ、私が多くの先人や先輩の牧師の先生方から導かれるなかで、理解してきたことから神学的に類推すると、こういったことを考えることも可能だろう、ということだ。

 

神学校では、入学時・在学時に「召命があるかどうか」が厳しく問われるが、赴任して職務を果たすなかで、牧師はこの問いをさらに深めて、「自分はどんなタイプの神の召しにあずかっているのか」を神に祈り求め、神から示されて悟っていく必要があると思われる。

 

神にこれを教えていただくことのなかで、御心にかなった形での転任もなされることになり、牧師としての歩みがまっすぐになっていくのではないだろうか。

 

牧師の辞任・転任が正しいという動機や状況について、論じてみた。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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