日本伝道の病巣① 「消費者主義」

 細菌・ばい菌のイラスト「悪い顔のキャラクター」 | かわいいフリー素材集 いらすとや


「日本伝道の病巣」というタイトルは、「日本伝道を妨げている主たる要因」について考えてみる、という意図でつけている。

 

これから書こうとしている主題の記事は、決して「励まされる」類の話題ではないし、多くの人が聴きたがらないようなことだ。

 

しかし「自覚して救いを求めていく」ためには是が非でも必要なものである、という種類のものだと考えている。

 

こういったことから目を背け続けることによって、教会は「病識(病気にかかっている自覚)」がないままに、ついには歴史的な「死」に至る可能性がある。

 

「教会が反聖書的な病気にかかっていないか、どうか」について考え、自覚するために、用いて頂ければ感謝である。

 

「日本伝道の病巣」として第一に挙げたいのは、「消費者主義」だ。

 

いまや、人間社会のすべてが「経済原理」によって支配されている感があるが、それはキリスト教会も同じである。

 

「日本の教会に出席する多くのキリスト者が、ある商店で商品を購入するような思いで献金をし、教会で牧師から宗教的サービスを受けているのではないか」ということだ。

 

教会の外に出れば、ほとんどの企業体はもちろん、以上のような原理で運営されている。

 

「お金さえしっかりと払ってくれるなら、企業の側がサービスする」のは当然のこととされる。

 

キリスト者もこういった社会全体の空気や考え方の影響から、自由であるはずがない。

 

教会に出席することも、「お店にショッピングに行くこと」の「延長」として考えるのは、当然の思考の流れと言える。

 

「お店」と言わずとも、「習い事」や「文化教室」に通うような気持ちで、教会にも行っている人は、非常に多いだろう。

 

そこでの献金はそういった習い事での「月謝」であり、これを払っている以上は自分は教会にサービスを要求する正当な権利を有する、と考えるのではないだろうか。

 

そして、教会でのサービスに不満や落ち度があるなら、いくらでも「クレーム」を言い、「払っているお金の対価」を請求する当然の権威が自分にはある、と考えるのも当然だ、というかもしれない。

 

以上の考え方は、教会を企業と同じものと考え、キリスト者を「顧客」「消費者」と考えるところから生じる、重篤な「教会的病気」であると言える。

 

「消費者」と「キリスト者」のどこが違うか、以下に三つのポイントだけでも挙げてみよう。

 

・消費者はサービスの「対価」として料金を支払うが、キリスト者の献金は「神に対する感謝と献身のしるし」であり、牧師によるサービスや労働への「対価」ではない。

 

・消費者は「企業」に向き合って「交換」という取引を行うが、キリスト者が向き合っているのは「三位一体の神」であって、そこでは「交換」ではなく「一方的な恵みとそれへの応答」の関係が成り立っている。

 

・消費者は「消費者の権利」を企業に対して主張できるが、キリスト者は神に対して「自分の権利」は主張できない。

 

なぜなら、自らのすべてが神によって創造されたものだから。

 

もちろん牧師や教会にクレームを言うことはできるし、言わなくてはならないこともある。しかしそれは「自分の正当な権利」ではなく「聖書」と「祈り」に基づいたものでなくてはならない。

 

ところで、自分を「消費者」として考える人がキリスト者に増えるほど、どういった課題が噴出してくるのだろうか。これも、代表的なものだけ挙げてみる。

 

・信徒は「サービスを受ける受動的な消費者」であるから、教会で「受けるだけ」の立場を欲するようになり、教会と常に遠い距離を置き続け、「奉仕」や「伝道」することを嫌がるようになり、結果として信仰的にほとんど成長しなくなる。

 

・教会の「サービス」になんらかの個人的不満がある場合、それがたとえまったく聖書に合致していなくても、牧師や役員会に良心の呵責もなく主張するようになり、教会に混乱や分裂をもたらす。

 

・信徒は「消費者」で牧師は「店主」もしくは「企業の責任者」の位置づけになるため、「牧師に教会のことをなにもかも背負わせる」ようになる。

 

というのも、消費者はお店のことに「サービスの対価としての料金を支払う」こと以外に、「責任」はまったくないから。

 

さらに、このことの「帰結」を描いてみよう。

 

・牧師だけが「伝道」しようと頑張るが、信徒は伝道を永続的に嫌がり続け、結果教会は衰退していく。

 

・牧師だけが信徒の不満を受け止め、伝道の責任を果たそうとするようになるため、結果牧師がやがてつぶれる。

 

・牧師に伝道の志や能力がないか、神に対して誠実ではない場合は、牧師が教会の「寄食者」となってしまう。

 

「消費者としての信徒を相手にうまく立ち回ることで、自分の生活を確保する」ことを第一として、結果先人が死に物狂いで築いてきた教会を食いつぶしていく。

 

以上のことは、現在日本の教会において、各地で現実に「起こり続けていること」だ。

 

牧師も信徒も、「消費者」から「キリストの弟子」・「キリストのからだの一部」への「特大転換」をするように、今ほど求められているときはない。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧