日本伝道の病巣③ 「嗜好主義」

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日本伝道の病巣の第三として、「嗜好主義」を挙げたい。

 

これも主として教会形成に関わる私の造語の概念だが、「牧師や役員の個人的な趣味や嗜好によって、教会形成の重大な部分が決定されてしまう」ということだ。

 

人間として、個人が各自異なる趣味や嗜好を持っているのは当然のことであり、これを矯正することなどできないし、その必要もない。

 

ある人は、54年版讃美歌の方が「好き」であり、別の人は賛美歌21の方が「好き」だ。

 

ある人は、講解説教の方が「好き」で、別の人は主題説教の方が「好き」だ。

 

ある人は牧師が主導権を常に握っているのが「好き」だし、別の人は「みんなでワイワイやっている感じ」が「好き」だ。

 

ある人は「明るく白っぽい礼拝堂」が「好き」だし、別の人は「落ち着いた色の礼拝堂」が「好き」だ。

 

こういった「嗜好や趣味」は、牧師や信徒の心のなかの「自分にとっての理想の教会」の「青写真」に合致しているかどうか、という点から生じる。

 

そして、こういった「自分にとっての理想の教会」は多くの場合、「自分が洗礼を受けた母教会」がその主たるイメージを担っていることが多い。

 

そのため、牧師は自分が赴任した教会を「母教会」に似たものにしようとする傾向があるし、転会してきた役員も「母教会」に似たものにしようという無意識的前提のなかで役員会で議論をしたりする。

 

礼拝式順、教会の建物内の配置から、好きな讃美歌、インテリアや備品などに至るまで、教会では役員会で決定がなされるが、そういった議論をする際、「趣味や嗜好」といった言葉を明言するしないにかかわらず、「自分の趣味や嗜好に合致するのは、これだ」という議論をして決定してしまうことを「嗜好主義」と呼んでおく。

 

役員会は牧師や役員の「趣味や嗜好」を「すり合わせる」ための協議となり、「キリストの主権と臨在」を第一としたものからは、大いに乖離していく。

 

こうした趣味や嗜好を、「教会のなかに正しいこととして無批判的に導入してしまう、もしくは導入しようとして反対されるとひどく腹を立てる」ことは、「個人の趣味や嗜好が教会の重要な歩みを決めてしまう」ことであり、ある意味非常に緩い形ではあるが「個人による教会の私物化」に近い。

 

それぞれの教会には独自の伝統や路線、歴史的な「流儀」というものがある。

 

こういったことを、牧師や役員はしっかりと「前提」としてふまえておかないのなら、教会形成などできはしない。

 

こういった路線や流儀を「深化・発展」させるような形の議論なら望ましいわけだが、路線や流儀をまったく考慮せずに牧師や役員の個人的趣味や嗜好によって決定されてしまうと、教会はもはや歴史的歩みから遊離した「根無し草」と化して、ご都合主義的な応急手当ばかりを繰り返し、建設的に歴史を「積み上げる」ことがなくなってしまう。

 

役員会でなされる議論は、言わずもがなだが、「この教会にとって、どういう道を歩むのがふさわしいか」についての議論だ。

 

牧師も役員も、役員会で「個人的趣味や嗜好」について発言や主張をするようにとは、だれからも求められてはいない。

 

「この教会がキリストの御心にかなうために、どうすればいいか」について、最大限の信仰と想像力、理性をもって「最適な解」であると自分が考えるところを、発言するように求められているのだ。

 

そこでは、当然「自分の趣味や嗜好」は、「キリストと教会」のために「脇へ置く」ことが要請されている。

 

つまり、役員会を形成する者は、「自分の嗜好とは違うのだが、これまでとこれからの教会を考えるなら、こちらの選択肢がふさわしい」という「自分の嗜好とは反しているが、当該教会には適切と思われる意見」を主張することも、責任として引き受けていかなくてはならない、ということだ。

 

ところが、その点が「私にとって、この教会でどういうことがなされるのが好ましいか」という個人的嗜好による議論への「すり替え」がなされてしまい、「個人の趣味・嗜好」を第一とした役員会での協議となってしまう。

 

役員会は「自分好みの教会を作るための会議」と化してしまい、もはやそこでどのような協議がなされようとも、キリストの御業を推進するものではなくなる。

 

牧師も役員も、「自分にとっての理想の教会」の青写真があるのは結構なのだが、それを「いったん脇へ置く」ことをして、「今、この教会が直面している課題や、キリストの御言葉の広まりを第一に考えるなら、どういった選択が最適であるのか」を協議するのが、役員会の使命なのだ。

 

この使命を各自が理解していないなら、役員会は決して建設的なものになりはしないし、各自が自分勝手な嗜好に合う方向性を打ち出し続けて、ついには瓦解してしまう。

 

牧師と役員は、「キリストと教会のため」に考え、発言するものであって、「自分の嗜好や趣味」を第一に考えているようであるなら、根本的に自分の在り方を転換し、悔い改める必要がある。

 

役員会が各自別々の方向を向いて、「神のことを思わず、人間のことを思っている」状態であるなら、教会に将来が拓けることなど、ありえない。

 

以上の点は、実践的に非常に重要な論点を含んでいるもので、牧師や役員は教会形成をしていくためには「信仰的・教会的な思考法」が求められている。

 

それを各自が学び、身に着けていかないなら教会として正しい道をまっすぐに歩むことはできないことを、心に留めなくてはならない。

 

「信仰的・教会的に考える」ためには、「カテキズム」の学びが不可欠であり、カテキズムが「血肉」になってくると、自然と信仰的・教会的に考えることができるようになる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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