日本伝道の根幹⑤ 「教会は信徒が願っている以上には成長しない」

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「教会は信徒が願っている以上には成長しない」というタイトルで書いてみたい。

 

ここでは、論理的な筋道を単純化して理解を容易にするために、「教会の成長」を「人数・規模」として考えてみることとする。

 

「牧師」と「信徒」という大枠を設定して、考察してみよう。

 

牧師には牧師なりのビジョンや展望というものがある。

 

ごくおおまかなものでも、「礼拝出席は~人くらいで、~といった働きや奉仕により、一人ひとりが信仰的に成長し、地域にキリストを伝えるようにしたい」といったものだ。

 

たとえば、礼拝出席30人程度の教会にある牧師が赴任したとして、その教会が「少なくとも60人程度になるように奉仕したい」、と願っているとする。

 

牧師としては、「60人規模の教会になるためには、これから~といった働きを設置して、広げていく必要がある」と、対策や方策として考えるだろう。

 

一方、その教会の信徒の多くにとっては、「30人くらいの人数が、教会としては居心地がよいし、信仰生活もしやすい」と、心の奥底の「本音」のところでは考えている状況があるとする。

 

その場合、牧師が役員会等で「~という働きをしたいのだが、どうか」と問いかけたとき、役員会はどう反応するだろうか。

 

役員会の多くの人は本音の部分では「これ以上、教会が大きくなるのも~の理由で不都合だ」と考えているかもしれない。

 

だが、建前としては、聖書的にも牧師の前でも、そのような発言はふさわしくないと感じるだろう。

 

そういったとき、「その働きは、うちの教会の状況や、これから高齢化していることを考慮すると、~なので難しいでしょう」といった、別の理由をあげて反対することになるのではないか。

 

牧師がどんなに「60人程度の教会にしたい」と考えているとしても、教会の信徒がそういった牧師のビジョンを支持し、一緒に推進することがないならば、そういったビジョンも実現されることなどありえない。

 

「牧師個人のビジョンや力量、ポテンシャル」は、教会が成長していくうえで不可欠であって、これがなければ、どんなに信徒があたふたして、「うちの教会がまずい状態だ。なんとか成長するようにしてほしい」と願っていても、それは実現しない。

 

「牧師がそう願い、そのキャパシティや信仰的力量を越える以上には、教会は成長しない」ことは、まったくの真理だ。

 

同時に、牧師が力量や信仰においてどのように優れていたところで、信徒が牧師のビジョンに共鳴せず、それが実現するよう、共に奉仕し、共に主のために労することがないならば、ビジョンも「絵に描いた餅」に過ぎず、教会にはなんの変化も成長ない。

 

「信徒が心からそうなるよう願い、牧師と共に労する以上には、教会は成長しない」のも、同じくらいの真理なのだ。

 

「信徒が教会の成長を願っていないなどということなど、ありうるのか。それこそ、悪しき疑いというものではないのか」と問う方もおられるかもしれない。

 

しかし、「信徒」という立場にとって、「教会が成長し、大きくなることのデメリット」があるとするなら、上記の事態はまったくありえるし、現実にそれは世界中の教会で起こり続けているのではないか。

 

その「デメリット」としては、以下の要素がありうる。

 

・教会が大きくなると、自分の知らない人が増え、信仰生活を送るうえで居心地が悪くなったり、予期せぬことにより自分の平安が乱される可能性がある。

 

・教会が大きくなると、「知らない人」と新たに出会うことも多くなり、教会での「慣れ親しみ」が乏しくなり、結果的にプレッシャーや緊張感、圧迫感を感じることも増える可能性がある。

 

・教会が大きくなると、問題を起こす人もより多く増える可能性がある。

 

・教会が大きくなると、自分のことをケアしてもらうよりも、自分の方が他の人をケアしなくてはならなくなる可能性がある。

 

・教会が大きくなるには、自分がより大きな負担や奉仕、献金を担わなくてはならない可能性がある。

 

・教会が大きくなるには、自分がこの世に伝道する痛みや恥、働きが徒労に終わる失望を耐えなくてはならない可能性がある。

 

こういったデメリットの可能性について、「本音」の部分で「確かにこういうところがあるから、教会は今のままか、小さくなってもいい」と思っているときには、牧師や少数の熱心な信徒が、いくら教会が成長していくための提案やビジョンを描いても、そういったものを教会として実行することもないだろう。

 

上記の信徒の立場としての「デメリット」の部分はすべて、「大宣教命令を発しておられるイエス・キリストへの信仰によって乗り越えていくべきもの」であり、「聖霊の清めにより、信仰の成長する程度に応じて脱ぎ捨てていくべき自己中心性」に他ならない。

 

しかし、こういったデメリットを霊的に乗り越えることができない信徒が多ければ多いほど、またその意見が容易に通りやすいほど、その教会は停滞と衰退、場合によっては消滅に陥りやすい状況にある。

 

牧師自身がこういった内面的デメリットを克服して伝道する意欲を持っていないとするなら、それはもはや「職人・プロ・信仰者の模範としての牧師」にはふさわしくないものではないかと思われる。

 

場合によっては牧師以外の職務を志した方が、神の御心にかなうのではないかと、自らの良心に問いかけることも必要だろう。

 

牧師がこういったデメリットを乗り越えていくのは、教会の前進と成長にとっての「大前提」であるからだ。

 

現実的な課題となるのは、信徒一人ひとりがその置かれた立場において、こういった内面的に予期されるデメリットを「本音」の部分で、イエス・キリストによって乗り越えていくことにほかならない。

 

「本音」という言葉を使うのは、建前や表面上の発言において「正解」を言うことは非常に容易なことだが、本気で信じて実行することは、「本音」でしかできないからだ。

 

「言葉」自体は、本心に逆らって、いかようにも変えられる。

 

しかし、「行動・実行」の部分には、「本心」「内面的実質」があらわれざるをえない。

 

この課題が現在、日本の教会において神から厳しく問われ、応答を求められていることではないかと、心深くに思わせられる次第である。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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