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教会の衰退について③ 「救い」と「報い」の混同の問題

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「聖化」の歩みをしていくうえでは、

 

「罪を自覚し、悔い改めているか」

 

「御言葉に触れ、応えて祈っているか」

 

「礼拝や集会を重んじ、これを支えているか」

 

といった人間側の「命令法的」課題があることを描いてきた。

 

ところで、こういった話を聞くと、大抵の方は以下のような疑問を抱くと思われる。

 

「少なくともプロテスタント・キリスト教は『恵みのみ』の信仰であって、一方的・無条件的恩寵によって救われるのだ。

 

それなのに、聖化の歩みのなかでの人間の言葉や行動により、神が恵みを差し控えることもありうるというなら、それは一方的・無条件的恵みではない。

 

人間の側の行いによって神の恵みが左右されるというなら、それはかの有名な行為義認であり、ペラギウス主義であり、宗教改革の神学の否定であり、律法主義にほかならない」

 

こういった疑問や批判を抱く方が多いのは、よく承知しているし、それは「恵みのみ」をひたすらに慕い求めてきた信仰者として当然とも言える。

 

ところで、聖書にはどのように書かれているだろうか。

 

主イエスの「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20:1-16)を思い起こそう。

 

あの物語で、聞く者が不可解さを抱くのは、「多く働いたものと、少なく働いたものの報酬が同額である一デナリオンである」ということだ。

 

この物語において、一デナリオンがなにを意味しているのかということについては、「救い(義認の恵み)」であると言える。

 

つまり、「神の国のために多く働いものも、少なく働いたものも、等しく救われる」といことを語っている。

 

要するに、パウロやマザー・テレサの受ける救いと、彼らよりも神のために働いていない私たちが受ける「救い」の間には違いはない、同じ神の国の市民となることができる、ということだ。

 

一方、これとは異なる視点が描かれているものもある。

 

「ムナのたとえ」(ルカ19:11-27)を思い起こそう。

 

このたとえでは、「タラントンのたとえ」とは異なり、主人から預かるお金は同じ一ムナであるが、それぞれが働いた結果増やした額が異なっている。

 

つまり、同じ一ムナによって、一人は10ムナ、一人は5ムナ稼ぎ、一人はなにもしなかった、という形になっている。

 

タラントンのたとえでは、「各自が分に応じて働いて、同じように主人から誉められる」構造だが、

 

ムナのたとえでは「各自の働き・主人への応答の程度は異なっており、それに応じて主人によって報いられる」構造になっている。

 

10ムナかせいだ者は「10の町の支配権」を与えられ、5の者は5の町の支配権を与えられている。

 

つまり、それぞれの「出発点」は一緒でも、働いた程度により、その働きへの主人の「報い」は異なっている。

 

これはいわば、「聖化」的な側面を語っていると言えるだろう。

 

つまり、「どのくらい神に応答したかによって、神からの報いも異なってくる」ということだ。

 

「報い」は「救い」ではない。

 

「救い」には信じる者において各自差異はないが、「報い」にはなんらかの差異がある。

 

そこには明らかに、「主人に対する愛と忠実さ、応答・責任や負担の程度」が関わっている、ということだ。

 

これは「土台とその上の家」(Ⅰコリント3:10-16)にも関係性が描かれている。

 

「土台」は「イエス・キリストによる救い」であり、その「建物」は「キリストに基づいてどう生きたか」を示している。

 

神による「審判の火」により、「建物」がどういう素材で、火に耐えるかどうかは吟味される。

 

審判に耐えて残れば、「その人は報いを受ける」が、燃え尽きてしまえば「損害を受ける」とある。

 

しかし、仮に建物が燃えてしまっても、その人自身は「火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます」とある。

 

ここでも、「救い」と「報い」は区別されるべきことが示されている。

 

「教会の衰退」という文脈で特に課題となるのは、「救い」ではなく、「報い」に関わることだ。

 

私たち教会に属する者が救われているということについては、疑問を持つことはできない。

 

しかし、審判の火に耐えるほどの生き方を探求し、実践しているかと問われたとき、

 

また「神の報いを求めて、イエス・キリストの国のために日々受難をいとわずに苦闘しているか」を考えたとき、心もとない思いになるのは、私だけではないはずだ。

 

そこに「教会の衰退」の聖書的可能性がある。

 

私たちは「救われている」こと、「義とされていること」、「神の無条件的・一方的恵み」ばかりを説教し、説教され、これに満足と安心を覚えてきたが、

 

しかし聖書の別の側面である「神によるより大きな報い」を受けることができるよう、神に応えて聖化の道にまい進していくということにおいては、

 

意図的にか、意図しない形でかはとにかく、私たち教会に属する者の歩みには少なくとも大きな疑問符がついているということだ。

 

そうでないなら、教会は今の時代においてもなお、衰退などしていないだろう。

 

これからの歩みが、今こそ問われている。

 




教会の衰退について② 「聖化の衰退の聖書的可能性」

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前回の記事で、神学的には教会の衰退とは「聖化」の停滞・衰退であろう、と論じた。

 

それでは、聖書に照らして聖化の停滞と衰退はどのように起こると言えるのか。

 

聖書の言葉には「直接法」と「命令法」がある。

 

「あなたがたは神の子だ」

 

「今日こそ救いの日だ」

 

「あなたがた地の塩である」

 

これらが「直接法」であり、「キリストによって与えられている霊的現実」を意味している。

 

一方、

 

「絶えず祈りなさい」

 

「7の70倍までも赦しなさい」

 

「目を覚ましていなさい」

 

これらが「命令法」であり、「キリストによる霊的現実を前提とした生き方」を意味している。

 

「直接法」的な恵みなしには、「命令法」は「人を殺す文字」となり、「怒りをもたらす律法」となり、「キリストに導く養育係」となる。

 

一方、「命令法」的な生き方なしには、「直接法」は「罪人の義認ではなく、罪の義認」となり、「聖なる愛ではなく、人間の自己中心と妥協する甘やかし」となり、「悔い改め・変化・更新のない古い自我の保存」となる。

 

「直接法を生きることは、命令法なしにはなく、命令法を生きることは、直接法なしにはない」という関係性がここには成り立っている。

 

ボンヘッファーが「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」と著書に書いているが、内容的には同じことだ。

 

平たく言って、「恵みを受けることによって神に応えていく力を与えられるが、その力を使わずに応えない罪を犯していると、新たに恵みを受けることができなくなる」ということだ。

 

ところで、「義認」とは「神の恵みによる直接法の世界」への参入を意味しており、

 

「聖化」とは「神の恵みによる命令法の世界の実践」を意味している。

 

「聖化」の歩みをしていれば、罪を犯し、失敗し、怠慢となり、道を踏み外すこともありえる。

 

そこから、義認の恵みに立ち返ることで、やり直すことができる。

 

それがキリスト者の「週日と主日の関係」にもなる。

 

「聖化」の道を週日の間に進み、失敗を繰り返し、また主日に「義認」の恵みに戻ってやり直していく。

 

それでは、「聖化」の歩みが停滞・衰退することは、以上のなかのどこにその可能性があるのか。

 

それは、神学的には以下のことであろう。

 

・聖化の歩みをしていくなかで、命令法に背く罪を犯しても、その罪を認識・自覚しない。

 

・罪を犯して、それを認識しても、悔い改めて義認の恵みに戻ることをしない。

 

・神の「命令法」に従うことを怠る。もしくは従わなくてもよいと考え、従わない自分を正当化する。

 

・神の「直接法」の恵みを非常に安易・安価なものと考えて、命令法を自分の生活からなくしてもよいと考える。

 

これらは、実際的には以下のことにもなる。

 

・聖書の示す価値や生き方から離れ、この世の価値観に染まっていても、自分は問題ないと考える。

 

・良心に咎めや罪の意識を覚えても、悔い改めの祈りをせず、罪を認めない。

 

・聖書や祈りを実践する習慣を軽んじることが多くなる。

 

・この世的都合を優先し、礼拝や集会を軽んじる頻度が高くなる。

 

・「赦し」や「癒し」、「愛」や「恵み」ばかりを重く考え、「自分の責任や召し」を軽く考えるようになる。

 

以上のような考え方や生き方が、程度の強弱はあるにしろ、いろいろなグラデーションがあるにしろ、教会にあらわれてくることが、「聖化」の歩みを停滞もしくは衰退させることになる。

 

そして、こうした「症状」が出てきたとき、これが「治療」されるか、されないか、という課題が極めて重要なものとして出てくる。

 

つまり、こういった症状を指導者である牧師が認識しているのか、どうか。

 

牧師が指摘したとき、教会はそれを受け入れるか、どうか。

 

牧師自身は、これらの衰退や停滞の「渦」のなかに、霊的に巻き込まれていないか、どうか。

 

こういった牧師としての職務的な問題となることは避けられない。

 

さらに言うと、「牧師を導く牧師」である特定の教派において指導的立場にある人々が、こういった「渦」に巻き込まれていないか、どうか、ということが問われる。

 

だれかが「渦」に巻き込まれても、巻き込まれていない人が課題を指摘して、その人が立ち返るなら、「渦」は消える。

 

しかし、それぞれが巻き込まれて自分の罪を正当化してしまうなら、もはやどこに解決があるのか、まったく暗闇に包まれてしまう。

 

それぞれが担っている責任や召しに応じて、教会の衰退の症状も重層的になっていると思われるが、

 

それぞれの部署で神の国を広めようと努めている一人ひとりが、こういった「渦」に巻き込まれないよう、神への信仰を深める生活を守り続けることが、教会が衰退から救われている道になるだろう。

 

少なくとも、「直接法と命令法」、「義認と聖化」の関係性を正しく理解し、

 

これが説教されて一人ひとりが「身に着けていく」ことが、教会の回復と更新の第一歩として非常に重要であることは明らかだろう。



教会の衰退について① 「教会の衰退の聖書的可能性」

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「キリストの教会が衰退する」ということの聖書に照らした意義について、考えてみたい。

 

現在、キリスト教会はその信仰的な質の面でも、規模や数の面でも、加速度的に衰退の度合いを強めている。

 

こういった現象があらわれていることについて、さまざまな角度から分析することができる。

 

社会学的、統計学的、歴史学的にも解釈することができる。

 

ここでは、聖書と神学に照らしてどうであるか、ということを考えてみたい。

 

この議論では、とりあえず「教会の衰退」の定義については、いろいろ異論は当然ありうるが、ごく一般的な定義としておく。

 

つまり「教会の信仰の質と、信仰者の数の衰退・減少」という一般的な前提で、まずは出発したい。

 

議論が進むなかで、再定義もするかもしれないが、それは思考の流れに任せたいと思う。

 

聖書的信仰において、そもそも「教会が衰退する」という可能性はどこにあるのか、確認したい。

 

聖書では教会は「イエス・キリストという岩の上に建てられた、陰府の力も対抗できない」ものであり、

 

「キリストという羊飼いが導かれる群れ」、

 

「キリストという頭の身体」

 

「キリストという王の兵士・僕」

 

「キリストという花婿の花嫁」

 

などのイメージとして、示されている。

 

イエス・キリストは教会の救い主であり、私たちを罪と死から救ってくださるお方であるなら、

 

このキリストがおられる限り、教会は「安泰」「安全」であり、「保護されている」はずではないか?

 

それなのに、なぜ「教会が衰退する」などという、「まるでキリストがおられないかのような現象」が生じるのか?

 

「キリストによって救われた群れでありながら、その群れが衰退して消えていく」などということがあるのか?

 

もしそうなら、「キリストはご自分の民を選んでおきながら、その民が衰退して消滅していくのを見殺しにしている、悪しき王であり、悪しき羊飼い」ということにならないのか?

 

もし教会の主・頭・王・羊飼い・花婿がイエス・キリストであるなら、その教会が衰退するのは、

 

キリストの「力不足」か、「リアリティの欠如」か、「約束を履行しない不誠実」か??

 

本当にイエス・キリストを信じている者なら、以上のような議論をバカげたものとして一蹴しないわけにはいかないだろう。

 

「そんなことは全聖書と、自分の全人生に反している」と言う以外にない。

 

それでは、どこに原因があるのかといえば、これまでの議論の流れからは、

 

「教会を救うイエス・キリスト」ではなく、

 

「イエス・キリストを信じていると言っている教会」の方に「衰退の原因」があると考える以外にない。

 

教会はキリストの僕・羊・身体・花嫁であるが、その教会がいつの間にかそれらのものではなくなっていることがありうる、という点を考えない限り、「教会の衰退」という現象に聖書的な可能性は見出されない。

 

「イエス・キリストが教会を救おうとしても、教会がそのキリストの方を向いておらず、キリストを軽んじ、

 

自らにキリストから与えられているはずの信仰的立場から離反している」ことによる以外に、教会の衰退の可能性は聖書的にはないと思われる、ということだ。

 

キリストの教会が衰退する可能性は、キリストの内にではなく、教会の内にあり、教会がキリストから離れてキリスト以外のものを「主」として、「心・力・時間をキリスト以上にそちらに割いていく」ような、

 

牧師と教会員の「偶像崇拝」の罪の教会史的な蓄積のうちにある、ということだ。

 

聖書的には、牧師と教会員ひとりひとりがイエス・キリストを「主」として献身しているなら、「衰退」の可能性は見当たらない。

 

私たちの魂の「向かう先」が「イエス・キリスト」から逸れていくこと、それが聖書的な教会の衰退の可能性だ。

 

だとするなら、教会の回復の道もまた、私たちがイエス・キリストに立ち返り、心を向け、自分に与えられているものをこのお方のために使って献身していく以外にはないと言える。

 

これは神学的には、どういうことになるのか。

 

「義認」ということにおいては、私たちはイエス・キリストの救いを一方的な恵みにより与えられる。

 

神から受け取る救いも、またそれを受け取る信仰もまた、恵みにほかならない。

 

一方、「聖化」という点では、私たち自身に与えられている力・賜物・時間・・・などを積極的にキリストのために用いていくことが求められている。

 

神の恵みを受けることで、その恵みに応答して神の律法を守る生活を送る、ということだ。

 

実際的には「神を愛し、隣人を愛する」ことのために、自分に与えられているものを用いていくことになる。

 

そこには「罪との葛藤と闘い」があるし、「一進一退」を繰り返しながら、苦難と鍛練を通して清められていくプロセスがある。

 

人間的な意味における、「努力」・「精進」・「責任」・「意志と決断」・「志とビジョン」といったことも、この「聖化」の枠のなかに位置付けられる。

 

聖霊なる神の御業の主権のもと、人間もまた力の限りに神に応えていく必要があるのだ(ルドルフ・ボーレンの「神律的相互作用」)。

 

聖化もまたもちろん「恵み」であるが、それは「人がそれに応えることによって更に増大し、広がり、深まっていく種類の恵み」とも言えるのではないか。

 

「教会の衰退」は、「聖化の歩みにおける教会の衰退と停滞」を意味している、と神学的には言えるだろう。

 

それでは、なぜ「聖化の衰退や停滞」は起こるのか。

 

これらは聖書的にはどのような可能性から生じるのか。

 

次回、またこれを論じたい。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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