教会の衰退について① 「教会の衰退の聖書的可能性」

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「キリストの教会が衰退する」ということの聖書に照らした意義について、考えてみたい。

 

現在、キリスト教会はその信仰的な質の面でも、規模や数の面でも、加速度的に衰退の度合いを強めている。

 

こういった現象があらわれていることについて、さまざまな角度から分析することができる。

 

社会学的、統計学的、歴史学的にも解釈することができる。

 

ここでは、聖書と神学に照らしてどうであるか、ということを考えてみたい。

 

この議論では、とりあえず「教会の衰退」の定義については、いろいろ異論は当然ありうるが、ごく一般的な定義としておく。

 

つまり「教会の信仰の質と、信仰者の数の衰退・減少」という一般的な前提で、まずは出発したい。

 

議論が進むなかで、再定義もするかもしれないが、それは思考の流れに任せたいと思う。

 

聖書的信仰において、そもそも「教会が衰退する」という可能性はどこにあるのか、確認したい。

 

聖書では教会は「イエス・キリストという岩の上に建てられた、陰府の力も対抗できない」ものであり、

 

「キリストという羊飼いが導かれる群れ」、

 

「キリストという頭の身体」

 

「キリストという王の兵士・僕」

 

「キリストという花婿の花嫁」

 

などのイメージとして、示されている。

 

イエス・キリストは教会の救い主であり、私たちを罪と死から救ってくださるお方であるなら、

 

このキリストがおられる限り、教会は「安泰」「安全」であり、「保護されている」はずではないか?

 

それなのに、なぜ「教会が衰退する」などという、「まるでキリストがおられないかのような現象」が生じるのか?

 

「キリストによって救われた群れでありながら、その群れが衰退して消えていく」などということがあるのか?

 

もしそうなら、「キリストはご自分の民を選んでおきながら、その民が衰退して消滅していくのを見殺しにしている、悪しき王であり、悪しき羊飼い」ということにならないのか?

 

もし教会の主・頭・王・羊飼い・花婿がイエス・キリストであるなら、その教会が衰退するのは、

 

キリストの「力不足」か、「リアリティの欠如」か、「約束を履行しない不誠実」か??

 

本当にイエス・キリストを信じている者なら、以上のような議論をバカげたものとして一蹴しないわけにはいかないだろう。

 

「そんなことは全聖書と、自分の全人生に反している」と言う以外にない。

 

それでは、どこに原因があるのかといえば、これまでの議論の流れからは、

 

「教会を救うイエス・キリスト」ではなく、

 

「イエス・キリストを信じていると言っている教会」の方に「衰退の原因」があると考える以外にない。

 

教会はキリストの僕・羊・身体・花嫁であるが、その教会がいつの間にかそれらのものではなくなっていることがありうる、という点を考えない限り、「教会の衰退」という現象に聖書的な可能性は見出されない。

 

「イエス・キリストが教会を救おうとしても、教会がそのキリストの方を向いておらず、キリストを軽んじ、

 

自らにキリストから与えられているはずの信仰的立場から離反している」ことによる以外に、教会の衰退の可能性は聖書的にはないと思われる、ということだ。

 

キリストの教会が衰退する可能性は、キリストの内にではなく、教会の内にあり、教会がキリストから離れてキリスト以外のものを「主」として、「心・力・時間をキリスト以上にそちらに割いていく」ような、

 

牧師と教会員の「偶像崇拝」の罪の教会史的な蓄積のうちにある、ということだ。

 

聖書的には、牧師と教会員ひとりひとりがイエス・キリストを「主」として献身しているなら、「衰退」の可能性は見当たらない。

 

私たちの魂の「向かう先」が「イエス・キリスト」から逸れていくこと、それが聖書的な教会の衰退の可能性だ。

 

だとするなら、教会の回復の道もまた、私たちがイエス・キリストに立ち返り、心を向け、自分に与えられているものをこのお方のために使って献身していく以外にはないと言える。

 

これは神学的には、どういうことになるのか。

 

「義認」ということにおいては、私たちはイエス・キリストの救いを一方的な恵みにより与えられる。

 

神から受け取る救いも、またそれを受け取る信仰もまた、恵みにほかならない。

 

一方、「聖化」という点では、私たち自身に与えられている力・賜物・時間・・・などを積極的にキリストのために用いていくことが求められている。

 

神の恵みを受けることで、その恵みに応答して神の律法を守る生活を送る、ということだ。

 

実際的には「神を愛し、隣人を愛する」ことのために、自分に与えられているものを用いていくことになる。

 

そこには「罪との葛藤と闘い」があるし、「一進一退」を繰り返しながら、苦難と鍛練を通して清められていくプロセスがある。

 

人間的な意味における、「努力」・「精進」・「責任」・「意志と決断」・「志とビジョン」といったことも、この「聖化」の枠のなかに位置付けられる。

 

聖霊なる神の御業の主権のもと、人間もまた力の限りに神に応えていく必要があるのだ(ルドルフ・ボーレンの「神律的相互作用」)。

 

聖化もまたもちろん「恵み」であるが、それは「人がそれに応えることによって更に増大し、広がり、深まっていく種類の恵み」とも言えるのではないか。

 

「教会の衰退」は、「聖化の歩みにおける教会の衰退と停滞」を意味している、と神学的には言えるだろう。

 

それでは、なぜ「聖化の衰退や停滞」は起こるのか。

 

これらは聖書的にはどのような可能性から生じるのか。

 

次回、またこれを論じたい。



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