前回の記事で、神学的には教会の衰退とは「聖化」の停滞・衰退であろう、と論じた。
それでは、聖書に照らして聖化の停滞と衰退はどのように起こると言えるのか。
聖書の言葉には「直接法」と「命令法」がある。
「あなたがたは神の子だ」
「今日こそ救いの日だ」
「あなたがた地の塩である」
これらが「直接法」であり、「キリストによって与えられている霊的現実」を意味している。
一方、
「絶えず祈りなさい」
「7の70倍までも赦しなさい」
「目を覚ましていなさい」
これらが「命令法」であり、「キリストによる霊的現実を前提とした生き方」を意味している。
「直接法」的な恵みなしには、「命令法」は「人を殺す文字」となり、「怒りをもたらす律法」となり、「キリストに導く養育係」となる。
一方、「命令法」的な生き方なしには、「直接法」は「罪人の義認ではなく、罪の義認」となり、「聖なる愛ではなく、人間の自己中心と妥協する甘やかし」となり、「悔い改め・変化・更新のない古い自我の保存」となる。
「直接法を生きることは、命令法なしにはなく、命令法を生きることは、直接法なしにはない」という関係性がここには成り立っている。
ボンヘッファーが「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」と著書に書いているが、内容的には同じことだ。
平たく言って、「恵みを受けることによって神に応えていく力を与えられるが、その力を使わずに応えない罪を犯していると、新たに恵みを受けることができなくなる」ということだ。
ところで、「義認」とは「神の恵みによる直接法の世界」への参入を意味しており、
「聖化」とは「神の恵みによる命令法の世界の実践」を意味している。
「聖化」の歩みをしていれば、罪を犯し、失敗し、怠慢となり、道を踏み外すこともありえる。
そこから、義認の恵みに立ち返ることで、やり直すことができる。
それがキリスト者の「週日と主日の関係」にもなる。
「聖化」の道を週日の間に進み、失敗を繰り返し、また主日に「義認」の恵みに戻ってやり直していく。
それでは、「聖化」の歩みが停滞・衰退することは、以上のなかのどこにその可能性があるのか。
それは、神学的には以下のことであろう。
・聖化の歩みをしていくなかで、命令法に背く罪を犯しても、その罪を認識・自覚しない。
・罪を犯して、それを認識しても、悔い改めて義認の恵みに戻ることをしない。
・神の「命令法」に従うことを怠る。もしくは従わなくてもよいと考え、従わない自分を正当化する。
・神の「直接法」の恵みを非常に安易・安価なものと考えて、命令法を自分の生活からなくしてもよいと考える。
これらは、実際的には以下のことにもなる。
・聖書の示す価値や生き方から離れ、この世の価値観に染まっていても、自分は問題ないと考える。
・良心に咎めや罪の意識を覚えても、悔い改めの祈りをせず、罪を認めない。
・聖書や祈りを実践する習慣を軽んじることが多くなる。
・この世的都合を優先し、礼拝や集会を軽んじる頻度が高くなる。
・「赦し」や「癒し」、「愛」や「恵み」ばかりを重く考え、「自分の責任や召し」を軽く考えるようになる。
以上のような考え方や生き方が、程度の強弱はあるにしろ、いろいろなグラデーションがあるにしろ、教会にあらわれてくることが、「聖化」の歩みを停滞もしくは衰退させることになる。
そして、こうした「症状」が出てきたとき、これが「治療」されるか、されないか、という課題が極めて重要なものとして出てくる。
つまり、こういった症状を指導者である牧師が認識しているのか、どうか。
牧師が指摘したとき、教会はそれを受け入れるか、どうか。
牧師自身は、これらの衰退や停滞の「渦」のなかに、霊的に巻き込まれていないか、どうか。
こういった牧師としての職務的な問題となることは避けられない。
さらに言うと、「牧師を導く牧師」である特定の教派において指導的立場にある人々が、こういった「渦」に巻き込まれていないか、どうか、ということが問われる。
だれかが「渦」に巻き込まれても、巻き込まれていない人が課題を指摘して、その人が立ち返るなら、「渦」は消える。
しかし、それぞれが巻き込まれて自分の罪を正当化してしまうなら、もはやどこに解決があるのか、まったく暗闇に包まれてしまう。
それぞれが担っている責任や召しに応じて、教会の衰退の症状も重層的になっていると思われるが、
それぞれの部署で神の国を広めようと努めている一人ひとりが、こういった「渦」に巻き込まれないよう、神への信仰を深める生活を守り続けることが、教会が衰退から救われている道になるだろう。
少なくとも、「直接法と命令法」、「義認と聖化」の関係性を正しく理解し、
これが説教されて一人ひとりが「身に着けていく」ことが、教会の回復と更新の第一歩として非常に重要であることは明らかだろう。