「聖化」の歩みをしていくうえでは、
「罪を自覚し、悔い改めているか」
「御言葉に触れ、応えて祈っているか」
「礼拝や集会を重んじ、これを支えているか」
といった人間側の「命令法的」課題があることを描いてきた。
ところで、こういった話を聞くと、大抵の方は以下のような疑問を抱くと思われる。
「少なくともプロテスタント・キリスト教は『恵みのみ』の信仰であって、一方的・無条件的恩寵によって救われるのだ。
それなのに、聖化の歩みのなかでの人間の言葉や行動により、神が恵みを差し控えることもありうるというなら、それは一方的・無条件的恵みではない。
人間の側の行いによって神の恵みが左右されるというなら、それはかの有名な行為義認であり、ペラギウス主義であり、宗教改革の神学の否定であり、律法主義にほかならない」
こういった疑問や批判を抱く方が多いのは、よく承知しているし、それは「恵みのみ」をひたすらに慕い求めてきた信仰者として当然とも言える。
ところで、聖書にはどのように書かれているだろうか。
主イエスの「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20:1-16)を思い起こそう。
あの物語で、聞く者が不可解さを抱くのは、「多く働いたものと、少なく働いたものの報酬が同額である一デナリオンである」ということだ。
この物語において、一デナリオンがなにを意味しているのかということについては、「救い(義認の恵み)」であると言える。
つまり、「神の国のために多く働いものも、少なく働いたものも、等しく救われる」といことを語っている。
要するに、パウロやマザー・テレサの受ける救いと、彼らよりも神のために働いていない私たちが受ける「救い」の間には違いはない、同じ神の国の市民となることができる、ということだ。
一方、これとは異なる視点が描かれているものもある。
「ムナのたとえ」(ルカ19:11-27)を思い起こそう。
このたとえでは、「タラントンのたとえ」とは異なり、主人から預かるお金は同じ一ムナであるが、それぞれが働いた結果増やした額が異なっている。
つまり、同じ一ムナによって、一人は10ムナ、一人は5ムナ稼ぎ、一人はなにもしなかった、という形になっている。
タラントンのたとえでは、「各自が分に応じて働いて、同じように主人から誉められる」構造だが、
ムナのたとえでは「各自の働き・主人への応答の程度は異なっており、それに応じて主人によって報いられる」構造になっている。
10ムナかせいだ者は「10の町の支配権」を与えられ、5の者は5の町の支配権を与えられている。
つまり、それぞれの「出発点」は一緒でも、働いた程度により、その働きへの主人の「報い」は異なっている。
これはいわば、「聖化」的な側面を語っていると言えるだろう。
つまり、「どのくらい神に応答したかによって、神からの報いも異なってくる」ということだ。
「報い」は「救い」ではない。
「救い」には信じる者において各自差異はないが、「報い」にはなんらかの差異がある。
そこには明らかに、「主人に対する愛と忠実さ、応答・責任や負担の程度」が関わっている、ということだ。
これは「土台とその上の家」(Ⅰコリント3:10-16)にも関係性が描かれている。
「土台」は「イエス・キリストによる救い」であり、その「建物」は「キリストに基づいてどう生きたか」を示している。
神による「審判の火」により、「建物」がどういう素材で、火に耐えるかどうかは吟味される。
審判に耐えて残れば、「その人は報いを受ける」が、燃え尽きてしまえば「損害を受ける」とある。
しかし、仮に建物が燃えてしまっても、その人自身は「火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます」とある。
ここでも、「救い」と「報い」は区別されるべきことが示されている。
「教会の衰退」という文脈で特に課題となるのは、「救い」ではなく、「報い」に関わることだ。
私たち教会に属する者が救われているということについては、疑問を持つことはできない。
しかし、審判の火に耐えるほどの生き方を探求し、実践しているかと問われたとき、
また「神の報いを求めて、イエス・キリストの国のために日々受難をいとわずに苦闘しているか」を考えたとき、心もとない思いになるのは、私だけではないはずだ。
そこに「教会の衰退」の聖書的可能性がある。
私たちは「救われている」こと、「義とされていること」、「神の無条件的・一方的恵み」ばかりを説教し、説教され、これに満足と安心を覚えてきたが、
しかし聖書の別の側面である「神によるより大きな報い」を受けることができるよう、神に応えて聖化の道にまい進していくということにおいては、
意図的にか、意図しない形でかはとにかく、私たち教会に属する者の歩みには少なくとも大きな疑問符がついているということだ。
そうでないなら、教会は今の時代においてもなお、衰退などしていないだろう。
これからの歩みが、今こそ問われている。