教会とはなにか⑧ 教会の「前進と成長」

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教会の教勢が「停滞している」と言われて久しい。確かに、日本基督教団だと、どこの教会でも「受洗者がなかなかいない、高齢化が進んでいる」と言われている。


確かに、教会は停滞しているように見える。


 ところで、教会の「前進」とは一体なんなのだろう。もしくは教会の「成長」とはなんだろう。


 洗礼を受ける人が出て、人数が増えることが前進であり成長なのか。


 献金が増えることが前進であり成長なのか。


 教会の雰囲気が明るくなるのが前進であり成長なのか。


 礼拝出席者ひとりひとりがやる気を出して、奉仕に勤しむことができるのが前進であり成長なのか。


 これらは、確かに前進であり、成長のひとつの姿であろう。それを否定することはできない。だが、私自身は、これらは教会の前進というよりも、むしろその結果ではないか、と考えている。


 礼拝出席者が増え、受洗者が与えられ、献金が増え、情熱が加えられ、生き生きとみんなが奉仕や伝道に勤しんでいる。これらの姿はすばらしいものだ。


だが、本当の教会の前進・成長は、こうした姿の、もっと深いところ、水面下で起こるのだ。つまり、信仰者ひとりひとりの心の深みで起こるのである。


 礼拝を通して、また自ら聖書を読み、祈るなかで私達の心に御言葉の種が播かれる。聖書の言葉を通して、ひとつの「悟り」が与えられる。


心の深みに、なにか変化が起こる。神の恵みの種が心に植えられたのだ。しかし、おそらく他の人々も、本人も、あまりそれに気付いていない。だが、なにか新しい変化が心に起こったのだ。


 礼拝に出て、聖書を読み、祈る生活を続けて行くなかで、心のうちに生じた御言葉による変化は、だんだん大きくなっていく。


水面に石が落ちたとき、その波紋がじわりじわりと広がって行くように、御言葉による神の命の力は、私達の心のうちで働いて、だんだんと心の深みから表面へと向かう。


聖霊なる神が神の恵みの種を養い、豊かに成長させてくださる。


 やがて、本人も自分が少し変わっていることに気がつく。


心に安らぎや喜びがきざしている。それが顔の表情や、態度や、言葉にもあらわれてくる。


すると、周囲の人も「あの人は最近明るくなった」とか「神によって変えられたのだなあ」と気がつく。


 そして、心の深みから表面にまであらわれた御言葉の力は、さらに広く周囲の人、さらに周囲の人へと恵みのなかに巻き込んでいく。


その人が霊的な影響力を発揮し始める。この人の祈りや奉仕によって、周囲の人が恵みを受けることになる。


 その人の言葉や態度、祈り、その人のすべてがキリストの香りと力を伝える器とされていく。その人と触れる人は、キリストの恵みに触れることになる。


 すると、この人のキリストにある霊的影響力に触れた人が、「私も教会に行ってみたい」という風に、一人、またひとりと導かれて行く。こうして、教会に受洗者が与えられ、前に記したようなすべての教会の好循環の状況が立ち現われてくる。

 

これが、教会が前進し、成長する、ということなのだ。


私たち一人ひとりの心の深みに御言葉が宿り、それが豊かに成長し、実を結び、他の人々を養い、新たに導いていく。


 教会の前進と成長は、私たちが御言葉を聞くことによって以外は起こらない。他のすべての場所にアプローチしても、本当の前進にはならないのだ。


 御言葉を聞くことによって、私達ひとりひとりの心に変化が起こり、それが新しい霊的影響力となっていかないかぎり、建物をたてても、土地を買っても、ビラをまいても、集会を企画しても、徒労となることを覚えたい。


御言葉の力が私達の間に、私達の心に、豊かに生き生きと働いて大きくなっていくことが、教会の前進であり成長なのだ。


他のすべては、これに伴って来る結果に過ぎないのである。






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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