「霊の見分け」という課題について、これまで何度も考えたことがあったが、正直「実践的にはどうすればよいのか、はっきりわからない」というところがあった。
それは、「見分ける」主体となる「人間」の判断は、常に間違うものである、という点をどう克服するか、という課題があるためだ。
イグナティウス・ロヨラの『霊操』という本にも「霊の見分け」について書かれており、「魂が覚える異物感」のようなものを手掛かりにしていると記憶している。
しかしこれは「客観性」に著しくかけてしまう「主観的方法論」であるため、個人的には非常に疑わしいものだった。
「霊の見分け」が「主観的方法」によってなされることは、非常に危険だと感じている。
たとえばの話だが、主観的に「霊の見分け」ができるとなると、ある信徒がある牧師の説教を聞いて、「あなたの説教からは悪霊を認識する」と言った場合、その牧師を攻撃する材料にもなりうる。
逆の場合として、牧師がある信徒の発言に対して、「あなたの背後にはサタン的なものを感じる」などといえば、それで信徒は大ダメージを受け、教会が嫌になってしまう。
これらはグロテスクな例だが、メンタル的に調子が悪いときは、心の「異物感」はよく感じるし、また悪霊的な恐怖や脅威を覚える人もいるだろう。
そういうときに「主観的判断」をすることは、医学の素人が重要な医学的判断をするのが危険であるようなもので、非常に危ういものがある。
こういった「霊的」な課題においては、「常識性・良識性・合理性・客観性のある程度の確保」が要請されないと、それぞれの信仰者の「主観的判断」によって教会がカオスにもなりうる危険がある。
聖書でも、ヨハネの手紙で「霊を見分けよ」と書かれているが、その方法としては「イエス・キリストを告白するかどうか」である、という基準を設けている。
つまり、「イエス・キリストの御名」が出てこない説教や祈りは危険である、というのが聖書的基準であり、これは「検証可能」なものであり、「客観性」があるといえる。
ある説教を分析し、批評するときに、「イエス・キリストの御名がどこまでこの説教のなかで讃美されているのか」を問うことは、説教批評の根源的・中心的課題だと自分は思っている。
逆にいえば、この御名が軽んじられている説教では、「異なる霊」が働いている、とある程度判断できる、ということだ。
このことは、私も『ただキリストを伝えよう』という本のなかでかなり長く論じているので、ご参考にして頂きたい。
今回言いたいのは、「更なる基準」について、ルドルフ・ボーレンが提案してくれていることだ。
ボーレンは、「霊の見分け」の基準について、「福音と律法」という観点から行うことを提案している。
主観的方法に頼ることは危険だが、ある説教や信仰的教えがどこまで福音的で、どこまで律法的か、を批判的に検討することで、そこで語られいる言葉から、「霊の見分け」が可能になる。
聖霊ご自身は「言葉をお与えになるお方」である。説教や祈りの源であるお方だ。
つまり、その与えられた言葉を検証すれば、語っておられるのが聖霊であるのか、異なるタイプのこの世の霊なのかがわかる。
その際、聖霊はイエス・キリストを語るお方として、「恵みの霊」であり、「福音の霊」であると言える。
つまり、ある説教においてあまりに内容と傾向と流れのすべてが「律法的」であるときは、それは聖霊からのものではない、ということだ。
これは、律法自体が悪い、説教において律法を語るべきではない、ということではない。
むしろ、マルティン・ルターのときから、説教者は律法を語るべきことについては、まったく問題はないし、律法のない説教の方こそが問題であるとも言える。
問題は、「どこに中心・強調点があるのか。その説教がなにを主たる目的にしているのか」といったところだ。
こういった核心部分が「律法」であるなら、それはもはや聖霊的な説教ではない。
ある説教の中心が「もっと祈りましょう」ということだったら、それはまずい。むしろ、「もっと祈ることができる力は、だれがくださるのか」を語らなくてはならない。
ある説教の中心が「人に配慮しましょう・人を赦し、尊重しましょう」もまずい。
むしろ、「配慮と赦しの心を創造してくださるのは、だれで、どのようにしてか」が中心でなくてはならない。
これはおそらく、説教ばかりか祈祷や生き方全般にも言えるだろう。
福音中心に祈り、生きているのか、律法中心なのか。
そこで「霊の見分け」が可能となる地平があるというのは、教会に生きる私たちが多くの課題を顧みていくうえで、小さくないヒントとなるのではないか。