ルドルフ・ボーレン 聖霊論と「神律的相互作用」

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ



カール・バルトの神学を学ぶことに神学校時代の前半のほとんどを費やして、しばらくしたとき、ルドルフ・ボーレンの『説教学』を読んでみた。

 

しかし、ボーレンがなにを語りたいのか、いまいちよくわからなかった。


ボーレンが使う用語や書き方も、詩的でエッセイ風の文体であって、なじみにくかった。

 

何度か読み返すうちに、少しずつわかってきたことがあるので、それを書かせて頂きたい。


ただ、今でもボーレンの書物は、本当のところなにを語りたいのか、わからないところが多い。

 

ボーレンの神学的意図は、おそらく以下のようなことだと思う。

 

カール・バルトは「キリスト論的集中」によって、教義学全体をキリスト論の基礎のうえに建てるという大事業を成し遂げ、世界の教会に多大な影響を与えた。

 

しかし、その神学が「キリスト論」に基礎を置き、そこから徹底して展開するタイプのものだったため、キリスト論によっては把握することができない数々の課題については、神学的に展開することができなかった。

 

特に、ボーレンが意識的に取り上げたのは「聖霊論」の神学だ。


バルトは「キリスト論」に集中するあまり、「聖霊論」によって展開可能であった数々の課題を置き去りにしてしまったのではないか。


聖霊論から新たに神学を構築することで、バルト神学には展望できなかったところが見えてくるのではないか・・・。

 

ボーレンは、バルトを否定するのではなく、これをしっかりと継承しつつ、バルトが展開できなかった部分まで聖霊論の射程によって神学を展開する、という動機があったのではないかと個人的には思っている。

 

特に実践神学の領域で、ボーレンは聖霊論的に神学を進めることで、バルト神学では把握できないようなところを発掘しようとしている。

 

その際、重要概念として登場するのが「神律的相互作用」という用語だ。


これは「神人協力説」であるとよく誤解されているが、そういう意味ではまったくない。


ボーレンが「人間が聖霊と協力するパートナーになる」といった表現を使うため、そういった誤解を招いているが、根本的に意味が異なる。

 

「神人協力説」というときは、「救済論(義認論)」の領域の課題だ。


つまり、「人間が救われる際に、人間の自由意思が神の救いの業に協力する」という「半ペラギウス主義的」な意味合いで、これは使われる。

 

しかし、ボーレンが語るのは「救済論」の領域ではなく、いわば聖霊による「聖化論」とそれに基づく教会論や実践神学の領域だ。


聖霊論の領域では、聖霊が人間を主導しつつ、人間は聖霊の働きに参与し、これに自らの存在を投入し、教会形成・社会形成・家庭形成に励んでいく。

 

そういった領域においては、人間はただ神の恵みを受けるばかりか、自らの能力・知識・存在のすべてをもって神の国の建設のために献身していく者として立てられており、その「人間存在」自体を「恵みのみ」の理解によって考察の対象から除外することはできない。

 

もちろん、聖霊が「主」であるのだが、人間がその導きに従う「従」でありつつ、人間の業自身もまた神学的に考察していくことを、ボーレンは提案している。

 

そのため、説教学を扱う際に、人間の業としてのレトリック、修辞学、発話や身振り手振りといったものまで、考察の対象とすることができる。

 

バルトなら、説教で「レトリック」を使おうという意図自体が罪である、と言うだろう。同じくトゥルナイゼンは、バルトと共に説教は「人間的なるものの死」を語るといった。

 

ボーレンはむしろ「聖霊によって生かされる人間的なるもの」を語ろうとした。

 

バルト神学と対比すると、その特徴は明らかだ。

 

バルトは「大事なのは神なのだ! 人間は死すべきものであり、神は永遠に生きる。人間は地におり、神は天におられる!」と神学的に叫んだ。


しかしそれは、他面においては人間自体を神学的課題の領域から押し退けるような作用を持っていたのではないか。

 

シュライエルマッハーを批判的に考えるあまり、ある意味では人間ばかりか「人間のうちに働いてくださる聖霊の業」までも、神学的に押し退けてしまうような傾向があったのではないか。

 

だから、バルト神学の薫陶を受けた説教者たちの説教からはよい意味での「人間臭さ」「泥臭さ」「生活臭さ」が消えてしまい、厳密な講解説教を理想にまで高め、会衆を置き去りにしたところがあるのではないか。

 

改めて、「聖霊論」の領域で「人間」をも神学的考察の対象にすることを、ボーレンは提案し、バルトが熱情のあまり退けた部分の真理契機を拾い上げているように思える。

 

このことはある意味、避けて通ることができない大いなる実践的な問題提起であると言える。

 

というのも、実践的には「牧師の人格や人間性」と教会形成とは、関わっていると言わざるをえないし、それを認めないことは不当にも現実をゆがめることになる。

 

ある牧師がその教会を牧会していたときは成長していたが、別の牧師に交代したら衰退するようになった、という事象はこれまで、どこの国の教会史において何度も何度も繰り返されている。

 

その原因のなかに、「牧師自身の人格や人間性」があるという点を否定することは難しいのではないか。

 

「キリスト論」だけだと、「正しい説教をしていれば、間違いなく教会は前進する」というシンプルな結論になるかもしれないが、聖霊論まで射程に入れると、そう課題は簡単には行かなくなることがわかる。

 

説教者と聖霊の関わりもまた、大きなカギになっていることを考えると、さらに広い領域まで考察が及ぶことになる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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