ルドルフ・ボーレン 「聖霊論的混交」

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ

ボーレンの神学的概念のうちで、個人的に一番なじみにくかったのは、「混合」という概念だ。

 

これは、聖霊が人間の身体や物質のなかに「混ざる・浸透する」ことを意味している。

 

神ご自身である聖霊が人間に「混ざる」と語ること自体に、人間が「神化」するような「異端的」響きを感じるため、一層誤解され、理解しにくいものとなっている。

 

これを正しく理解するためには、キリスト論に立ち戻ることが必要だ。

 

キリスト論のなかのカルケドン信条には、キリストの神性と人性という二つの本性は、「混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく」キリストの位格に保持され、共存されている、という言葉によって表現されている。

 

イエスは「まことの人間であり、同時にまことの神である」ことを、このようなまわりくどい定式で描こうとしているのだ。

 

大切なのは、イエス・キリストの神性と人性の定式に当てはまることは、聖霊を宿した人間には該当しない、ということだ。


聖霊を宿した人間は、別の定式によって表現することができる。

 

上のカルケドン信条の「混ぜ合わされる」という言葉をボーレンは聖霊論に適用し、神学的概念に昇華したのだ、と私は考えている。

 

つまり、聖霊を宿した人間は、キリスト論の対比すると、以下のような形の定式で語ることができるのではないか。

 

信仰者は聖霊論的に表現すると、「聖霊と混ぜ合わされつつ、聖霊によって変化させられつつ、しかも聖霊からは分離している」ということだ。

 

聖霊を宿した人間は、神になるわけではないし、聖霊ご自身とは永遠に区別され、分離している。人間は人間のままだし、聖霊は神ご自身であることをおやめになることはありえない。

 

それにもかかわらず、聖霊は人間のなかに「混ざる」と語ることができるほどに、浸透してくださり、人間の知性、身体、霊性に至るまで、変革してくださるお方なのだ。

 

ボーレンが聖霊を「混合」の概念によって語ることには、意味がある。

 

それは、聖霊は「物質」のなかに至るまで浸透してくださることを、語ることができるからだ。

 

一般に、聖霊論が語る「人間への内住」というのは、主として魂やメンタルの部分に聖霊が宿ってくださることを意味している。

 

しかし、ボーレンはこれを更に推し進めて、物質や身体に至るまで、聖霊が浸透するものとして語ることを目指している。

 

ボーレンは「聖霊論的混合」を語るとき、使徒19:12でパウロが「身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出ていくほどであった」と記されている物語を語り直している。

 

この物語は、「聖霊の内住」という範疇だと、非常に理解しにくい。聖霊が「心や魂」の問題に限定的に考えられると、パウロの「手ぬぐいや前掛け」に意味があるとは考えることができない。

 

しかし、聖霊なる神の自由の御心によって、パウロの手ぬぐいや前掛けという「物質」にさえ浸透し、その物質を通してさえ御業をなすことがおできなる、そのような聖霊の自由として理解することもできる。

 

ここで、「聖霊論」は「創造論」とリンクすることになる。


聖霊なる神は、三位一体において創造主なる神でもあられ、創造されたすべての「物質」のなかにも、主権的に浸透することがおできになる、ということだ。

 

以上のような議論は、神学的になお深化発展する余地を多く残している領域であって、これまでの伝統的神学をさらに乗り越えていくような思考が要請される。

 

特に現代の環境問題やエコロジーといった課題に対して、大きな視野を拓く可能性に満ちている。こういった課題に対しては、聖霊論なくしてはアプローチすることはほぼ難しいと言える。

 

同時に、ペンテコステ派やカリスマ派の兄弟姉妹たちがなしている祈りの実践も、ボーレンの神学からすると、かなりの程度まで神学的に理解することができる領域にまで広がっていくのではないか。

 

病気の癒しや、知性や身体を脅かす悪霊に対するアプローチは、聖霊が物質にまで浸透することを考えないと、ほぼ神学的には理解することはできない。

 

ボーレンの神学は、こういった現代的課題を考えるための神学的序章を描いてくれている。

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧