アウグスティヌス 「自由意志論」

 アウグスティヌス

「自由意志論」は、キリスト教神学では古典的テーマだ。

 

ここで言う「自由意志」とは、あくまで宗教的・信仰的な意味での自由意志だ。


ここを勘違いすると根本から間違ってしまう。

 

私が目の前の本に手を伸ばす自由意志はあるのか。

 

私が後ろを振り返る自由意志はあるのか。

 

私がいま、拍手する自由意志はあるのか。

 

もちろん、そんな日常的・常識的レベルのことがここでのテーマなのではない。

 

こうした一般的・常識的意味での自由意志を否定している神学者は、おそらくそういない。

 

汎神論的な神学を追求する神秘主義的神学においては、このような意味での自由意志も問題とし、否定する傾向がある。

 

しかし、一般的な神学ではこうした意味での自由意志は、大抵認められている。

 

重要な課題になるのは、神学的な意味における自由意志だ。


これは主として、「私が神に対して、神の前で、神と関わって神を喜ばせる意志の力という意味での自由意志」のことだ。

 

「人間は自分の意志の力で悔い改め、神に立ち返り、霊的生活を建て上げることができるのか」というのがここでのテーマだ。

 

アウグスティヌスは、このテーマを深く掘り下げた神学者だ。

 

というのも、このテーマについて深刻な論争が起きたからだ。ペラギウス論争だ。

 

ペラギウスは、人間の自由意志には自らを救済に向けることができる力があるとして、「原罪」という人間の根本的な罪を否定した。


人間の意志は神の前での善を選択できる、としたのだ。

 

しかし、アウグスティヌスは人間を縛り付ける原罪の力を深刻に認識していたので、こうした罪の影響のうちにある人間には、自分の自由意志の選択によって神と正しい関わりを持つことなど不可能だ、と考えた。

 

人間が「恩寵のみ」によって救われることを明白にしたのだ。これは宗教改革者にも多大な影響を及ぼすことになる。

 

「自由意志」のテーマは、実は聖書からある。


「ファリサイ派」や「律法学者」など、イエス・キリストと対立したグループは、「律法遵守」が人間に可能で、これによって神の前に義を獲得できると考えていた。これが、自由意志論争の根源と言える。

 

「ペラギウス論争」を越えて、宗教改革時代にも、マルティン・ルターとエラスムスの間で同じような論争が交わされた。

 

現代においても、ペラギウス主義者はさまざまな形で生き残って、影響を及ぼしている。

 

ちなみに、カトリック教会はペラギウス主義の考えを部分的に取り入れた、と言われている。いわゆる「セミ・ペラギウス主義的」なのがカトリック神学であると言われている。

 

カトリック教会が「行い」を強調するのには、このような背景があると言えるのではないか。

 

プロテスタント教会でも、「行い」重視の信仰を強調するグループは、ペラギウス主義者になりやすい。

 

ペラギウス論争を学ぶと、自分の信仰が「恩寵のみ」なのか、「恩寵と行い」なのか、「行い重視」なのかが見えてくる。


「行い」に重点がシフトすればするほど、罪認識と神の恩寵への信頼は薄く、軽くなる。罪認識を深刻にする人ほど、「行い」を考えれば考えるほど、良心の呵責に苦しめられる。

 

なお、アウグスティヌスにおいて、ペラギウス主義の文脈で批判されているのは、あくまで「救われる(義とされる)ために行いが必要かどうか」ということであって、「神の救いへの応答として(聖化される)ために行いが必要か」ということではない。


ここを誤ると、後者まで否定することになってしまい、重要な見落としをしてしまうことになる。


イエス・キリストに似た者とされていく聖化のプロセスにおいて、神への応答としての行いが必要なのは、当然と言える。


「義とされた」ことにあぐらをかいて、神に何の応答もなくして、清められることは困難だ。


ペラギウス論争については、いくつかあるが、自由意志の問題を考えるうえでは、避けて通ることができないものだ。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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