牧師の職務について⑥ 「伝道」に対して「間接的」な課題

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


教会を前進と成長に導くのは伝道である。それ以外にはない。


前進と成長は、伝道の結果である。


 伝道とは、御言葉を様々な方法によって広めることである。


 牧師は御言葉を広めるために必要なことはなんでもする。


牧師の存在意義は、御言葉を伝えることだ。牧師は伝道者であり、それ以外の何者でもない。


 しかし、このことは御言葉を広めることに対して、間接的であったり、距離があったり、必ずしも必要でないことは牧師はしない、ということを意味する。


 礼拝、祈祷会、集会、信仰教育、交わりの会、結婚式・葬儀といったことは、牧師は積極的にしていく。


これらは、御言葉を広めるためにどうしても必要だからだ。牧師自身が御言葉を語ることで、全力で伝道していく。


 ところが、以下のものは御言葉を広めることにとって、どうだろう。


 幼稚園・保育園の経営、カウンセリングの実施、福祉施設の運営、英語教室、バザー等・・・


 これらは、確かに間接的に御言葉を広めることに関係している。


付帯施設をしていれば、子供や保護者に御言葉を伝える機会がある。その他の事柄も、御言葉を伝えるきっかけとはなりうるだろう。


 だが、問題はこれらを「だれが」するのか、という点である。


 これらを「牧師」がすることになったらどうだろうか。


これらの事柄は、牧師に対して大きな労力と時間を割くことをどんどん要求してくる。


 牧師は御言葉を広める伝道者だ。


ところが、これらの働きを牧師が中心になってすることで、牧師は御言葉を広めること以外の恐ろしくたくさんの雑務と事務をこなさなくてはならなくなる。


牧師に与えられている時間と労力の非常に多くが、伝道以外の事柄に消費されてしまうのだ。


 こうして、御言葉を広めることだけに集中していれば、牧師に可能だったはずの多くの伝道の業が、こうした他の分野と事柄に分散されて、結局伝道の業にはわずかな力と時間しか注がなくなる。


 こうした伝道以外の他分野の働きによって、牧師が給与を受け取るようになると、お金をもらうことで責任が出てくるので、余計にたくさんの働きを引き受けざるをえなくなっていく。


こうして、牧師が伝道に注ぐべき力と時間が、他のことにいよいよ分散されて、伝道はいよいよ停滞していくのだ。


 答えははっきりしている。


こうした、御言葉を広めることにとって「あまりに間接的な事柄」から、牧師は身を引くべきだ。


そして、自分に与えられている全部の時間と労力を、伝道に、御言葉を広めることについて祈り、考え、学び、実施することに集中するのである。


 他の分野については、牧師ではなく、信徒の方々に担って頂くのである。


これによって、信徒の皆さんは、賜物を生かして奉仕する場が与えられるし、牧師は伝道に集中することで、教会の前進と成長におおいに貢献することができる。


 牧師が、御言葉を広める業に全力を尽くすことでしか、日本伝道の将来は切り開かれないと信じている。


 もちろん地方教会であると、牧師がこうした他の分野の働きから給与を受けないと、やっていけないほど教会が厳しいことが多い。


この事情があったとしても、牧師が伝道だけに集中できるようなシステムを、工夫を重ねて構築するべきである。


 牧師の時間と労力を、他分野に費やさなくもいいような体制ができないと、教会の停滞現象が克服されることはないだろう。


教会が新しく前進と成長を始めることもないだろう。停滞はますます深刻化するだけだろう。


 牧師は伝道者だ。


伝道者は、御言葉を広めることを使命とし、自らのすべてをこの使命にささげる。このことによって、必ず教会の将来は切り開かれることを確信するものである。


 





教会の衰退について⑧ 「罪認識のゆがみと消失」による教会の停滞・衰退

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なぜ日本の教会は停滞・衰退しているのか、というとき、「罪の問題」が非常に大きな課題となっているように思えてならない。


 「良心が罪の意識に苦しめられて、苦悩する」というのは、キリスト者の経験の一部だったはずだ。ところが、最近このような罪に関わる苦しみがほとんど教会でも見聞きされることがない。


 アウグスティヌスもマルティン・ルターもジャン・カルヴァンもジョン・ウェスレーも、皆この罪の苦しみのなかからキリストにある救いを見出して行った。


ところが、現代の教会からはこの罪にまつわる苦闘や苦悩がほとんど死に絶えたように思える。


 「罪認識」「罪の自覚」が消滅してしまったように見えるのだ。


 キリスト者が罪認識を失ったらどうなるか。十字架の恵みも薄れて行き、やがて消えてしまうだろう。


主イエスが十字架に苦しまれたことの永遠の意義が、隠れて見えなくなってしまうのだ。


 私達に「罪の自覚」がないことが、私達の教会の前進をおおいに妨げているのではないだろうか。


 自覚がなくても、罪は現に私達をとらえているのだ。罪は隠れた形で、猛威をふるっている。自覚と認識がないので、罪は私達の間で好き放題をしている。

 

私達の教会が罪の自覚へと改めて導かれることが、新しい出発ともなるだろう。


 では、なぜ罪の自覚は消えてしまったのか。


 それを神の愛との関係で考えてみる。


 「罪を犯しているから、神は愛して下さるのだ」そう考える人はおそらくいないだろう。


この考えだと、罪をもっと犯せば、それだけ愛してくださる、ということになる。


罪の完全肯定になる。ここまで極端に考える人はいない。


 だが、「罪を犯しているけど、神は愛して下さるのだ」と考える人は大勢いるのではないか。


教会の説教でもこういう言葉を聞くことがある。だが、ここには巧妙に隠されたサタンの罠がある。


 こうした言葉によって、またこうしたことを「これはいいや」と安易に受け入れてしまうことで、本心のレベルで罪が肯定されてしまうのだ。


結局、「わたしが罪を犯しても、神は愛して下さるから、今のままでいいんだ」ということになってしまう。


つまり、罪を悔い改め罪を捨てて、新しく神に従って行く、という生活の変化が、この理解だとまったく起こらない。


罪は容認される。罪は別に犯してもいい。


罪を犯しても、神の愛があるから大丈夫だ。こうして、罪を悔い改める必要はなくなる。罪を認識する必要もない。


 上の理解が、まるで恐ろしい伝染病かなにかのように日本の教会に広まっているのではないか。


罪を真剣に受け止めず、「神の愛があるから大丈夫」ということで、罪と向き合うことをしない。だから、主イエスの十字架のすばらしさ、ありがたさもよくわからなくなる。


 罪は、決して容認できないものなのだ。私たちはどんな小さな罪でも、抱えていたら天国に行けないのだ。


私たちはどんな小さな罪でも、それによって神の前に滅亡するのだ。罪によって、私たちは死という報いを受けなくてはならないのだ。


 だから、「罪を犯しているけど、神は愛して下さる」という形で、自分の罪を容認する理解を捨てるべきだ。


そうではなく、「罪を犯しているにもかかわらず、神は愛して下さる」という理解が正しいのだ。


 この理解では、罪は容認されていない。罪は否定されるべきものだ。


罪の恐ろしさを真っ向から受け止めて、それにもかかわらず神の愛が罪よりも勝っていることを信じるのである。これが本当の信仰なのだ。


 「罪を犯しているけど、神は愛してくださる」だと、私達の生き方や生活、日々の姿勢が変化することはない。現状は肯定され、容認される。


ところが、この「にもかかわらず」の理解だと、私たちは最終的には罪と同居することはできず、罪のすべてを捨て去って神の国へ行かなくてはならないことがふまえられている。


罪は憎むべき、死に値するものであることを認めつつ、なおキリストの愛に信頼する在り方である。


 この理解においては、私達の人生は罪との戦いなのである。


どこかで罪と休戦することはありえない。私たちは神のもとに召されるまで、罪と抗争を続ける。


罪を犯して、神の愛を信じて悔い改めて、立ち上がってまた歩み、また罪を犯し、しかし立ち返り、という戦いを続ける。


こうしたなかで、私達の人生全体がいよいよ善きものとされ、聖なるものとされ、キリストの恵みを映し出すものとされていく。これがキリスト者の歩みなのだ。


 教会が停滞しており、力を失っているのは、罪を容認し、罪を肯定しているからではないだろうか。


これにより、すべてが現状維持に留まってしまっている。


私たちは生涯、罪と戦いを続けるべきなのだ。


 私たちは罪にもかかわらず、主イエス・キリストによって神に愛されている者なのだから。

 










教会とはなにか⑨ 「教会が停滞する原因」

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教会の前進と成長について書いた。では、なぜ教会が停滞するのか、と考えたい。


 教会が前進するのは、御言葉の種がまかれ、それが成長して収穫に向かい、新たな畑に播かれていくからだ。


当然、この神の農作業(御言葉の種まきと収穫)の循環がどこかでとどこおって、妨げられるなら、教会は停滞する。停滞の原因はいくつか考えられる。

 

     「説教」が説教になっていない

 

御言葉の種まきである説教が、御言葉の命が聖霊によって豊かに根付き、成長するようになされていないなら、当然教会は停滞する。


聖書の御言葉から、祈りと学びを通して、豊かに恵みをくみ上げるように牧師が準備しているかどうか。


 むしろ、聖書のうちにあるキリストの命以外の事柄に熱中して、聖書の外の事柄を話すことの方に傾いていないか。


聖書の御言葉を説教しているのか、もしくは自分の思想やこの世の考えを説教しているのか。


 もし牧師が聖書の示すキリストの命を説教していないなら、教会は当然停滞する。


牧師が自分に与えられている時間や労力を、聖書から命をくみあげることに集中しているのか、それとも別の事柄に大半を使ってしまっているのか、が問われている。


牧師が自分の時間をもっとたくさん説教に注いでいれば、教会は更に前進するはずである。


 現代の牧師は、明らかに祈りと説教準備以外のことをしすぎである。


付帯施設の働きや、様々な会議や、牧師同士の付き合いなどなど。


牧師が祈りと説教準備の時間を削れば削るほど、教会の停滞は深刻化せざるをえない。

 

②会衆のうちに祈りの生活が形成・確立されていない

 

牧師の説教の責任は重大である。


しかし、それだけではない。


会衆が、自宅や職場、その他どんな場所でも聖書を読み、祈る生活を形成していないなら、会衆のうちに聖書の御言葉の力が働くのが妨げられる。


 説教がまずいのが最も根本の問題だが、会衆が本当に聖書に親しみ、祈りの生活を送っているときには、なお教会は前進することができる。


会衆が祈りの生活を形成し、確立していないなら、教会の堅固さ・着実さ・確実さは鈍ってくる。

 

③罪が放置されている、罪との戦いがなされていない、神に応答していない

 

御言葉の命が与えられていても、私達の罪はその成長を妨げ続ける。


 御言葉を聞くことで、神の命の力が私達のうちで働き、成長し続けるが、しかし私たちが犯す罪が、その前進と成長をいつも妨げる。


だから、その罪との継続的な戦いがなされなくてはならない。


また、罪を犯したときには、悔い改めて主の道に立ち戻らなければならない。


聞いた御言葉への応答が捧げられなくてはならない。


こういった領域には、厳しさもあり、戦いもある。


 こうした戦いや悔い改めがなされることがないまま、罪が放置されて漫然と時間だけが過ぎて行くことになってはいないか。


牧師も、会衆も、共に罪に対する悔い改めと戦いをすることによって、御言葉の力は豊かに私達のうちに輝いて来る。罪が私達に勝ち続ける限り、教会は停滞を続ける。


 特に、個人でも家庭でも教会でも、御言葉を受けて祈ること、神に応答することにおいて怠慢であったり、その重要さをあなどっているとするなら、教会の停滞は明白にあらわれてくることは間違いない。


 「今の時代は、特に日本は伝道が難しい」と言われるときの、教会停滞の原因の外部的要因については、様々なものがある。


歴史的なものもあろうし、日本人の精神性によるものもあろうし、現代の特殊な状況に起因するものもあろう。


だが、これらは本質的ではない。これらがあることによって、もちろん伝道はより困難になるが、しかしこれらは絶対的な障害ではありえない。


 困難な時代には、教会はよりゆるやかに前進する。


順調な時には、大きく前進する。


教会はどんな時代にも前進し、成長する。


しかし、もし前進と成長を全然しない、ということならば、その原因は私達の罪にあるのだ。


他の事柄に責任転嫁してはならない。


 牧師が説教に全力を注ぎ、会衆は祈りの生活を確立し、牧師も会衆も共に罪を悔い改め、共に罪と戦い続けて行くなら、前進しない教会はない。


成長しない教会もない。


 これが私達の確信であるべきだ。

 







齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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